見出し画像

旅をしよう

ナースのたまごっち

12月といえば、山形県立保健医療大学・看護学科!というほどに、ここ数年は冬のこの季節をたのしみにしています。

看護学科の特別講義『相互理解連携論』で、ナースのたまごっち(看護2年生)たちと共に「相互理解って?」「連携って?」とあれこれ思いを巡らす時間を過ごすようになって数年。昨年からは山形県内で活躍する友人に声をかけ、シンポジウム方式の講義をするようになりました。

昨年に続き呼びかけに応じてくれたのは、山形市役所の〈すーぱー公務員〉&天童市の〈介護業界の風雲児〉。加えて今年はもうひとり、東京からオンラインで応じてくれたオープン・ダイアローグを日本で先進的に実践している〈役者兼ソーシャルワーカー〉の友人。

画像1

↑すーぱー公務員(左)、介護業界の風雲児(右)、かっくんと共に。真ん中は半年近く居候をしていた山形の大家族の朝ごはん風景のツーショット。

画像2

↑役者兼ソーシャルワーカー。髪の毛は自分で切っているとアピールしている一枚。

……この3人のクセのある(あるよね?)飛び抜けた才能を持った刺激ある生きざまをドーンと話してもらい、ランチを食べたあとの眠そうなナースのたまごっちたちを叩き起こしてきました。

この住んでいる世界の違う友人たちとぼくの出会いを話すと長くなるので省略(知りたい方は、山形で会いましょう)。

相互理解連携論

山形県立保健医療大学の相互理解連携論は、地元ナース養成科目のひとつとして、地元論、ジェネラリズム看護論と同様に、たまごっちたちの学びの一翼を担っています。 

要するに、とにかく出会ってしまった人たちからいろんな刺激を受けたりカルチャーショックを受けたりしながら自分の感じるままに悩み苦しみながら探求し続け、それまでの常識、信じていたものをひっくり返すような本当の話を聞いて、戸惑いも含めて学び直そう感じ直そうぜっていうたのしい時間です。

この説明だと意訳が過ぎるので、詳しくはこちらをどうぞ↓

講師たちの本当の話

今回の講義は、同質性という言葉で幕が上がりました。
全地区町村において、ワクチン接種率ナンバーワンは山形市だという。その接種率の高さは言い換えれば同質性の高さの表れではないのか、というひとつの提言が示されました。右へ倣え的なその同質性にあって、多様性という矛盾した提言が世界のあちこちで叫ばれています。つまり、右の真似をしないと成り立たない社会を教育を通じて作っておきながら、個性を伸ばそう、違いを認めようっていう……混乱するよね。ということで、本当にぼくたちは多様性を受け入れるだけの成熟した社会の中にいるんだろうか、いや多様性は受け入れられる、いやとてもじゃないけど無理だ……うーん。

それぞれの講師の豪速球を、眠気と戦っている最中に投げつけられたたまごっちたちも後半、グループワークを通じて疑問に異論に反論に、聞きたいことや知りたいことを考える時間を持てたようです。

年齢で言えば二十歳前後のたまごっちたち。どんな話をしているのかな、叩き起こされるほどの刺激を受けたかなぁ。階段状の講義室でフィジカルディスタンスを守りつつ対話をする様子はとても微笑ましい。そして三者三様の話に十人十色の感想を持ち、自分たちの意見を交えつつ、それぞれの質問を素直に講師たちにぶつけてくれました(後日、たまごっちたちの感想を読ませてもらった)。

多様性

質問のひとつに、確かこんなものがありました。

「多様性を生み出すためにはどうすればいいですか?」

今の日本に多様性は難しいという講師である大人への疑念、怒り、落胆、必死の抵抗、そういう湧いてしまった素直な感情を、なんとかして伝えたいという気持ちが見え隠れする、そんな質問でした。

相互に理解しよう(相互に理解するためにはどうすればいいの⁉️)
連携しよう(他人との連携ってどういうことなんだ⁉️)
多様性を大切に(多様性は認めなきゃダメなんでしょ⁉️)

さてみなさんなら、このたまごっちの体当たりにどう応えますか?
たまごっちたちは今、たまごの殻の中で栄養を蓄えながら殻を破って表へ出る準備をしています。その殻はとても繊細で割れやすく、一度ヒビが入ってしまうと元には戻らないかもしれません(かつて、若者だったみなさんもそうだったんじゃないかな)。その繊細なたまごっちの体当たりを、ぼくたちおとなは、どうやって受け止められるでしょう。たまごっちが向かう先が塀やブロック、フライパンやステンレスのシンクなら、簡単に壊れてしまう。
繊細なたまごっちの体当たりを、何をもって受け止めよう。

受け止めない

ぼくの場合は受け止めない。たまごっちたちの思いをそのまんま、ありのまま受け止めないで、さらりといなす。たまごっちの突進をひょいとかわして、いなした先に広がる世界を一緒に想像する。

例えば、たまごっちの先を歩いたり後ろを歩いたり横に並んだりしながら、あそこに山がみえるよ、鳥がさえずってるよとかなんとか言いながら声をかけたり、肩口をちょんと叩いて方向を変えて送り出してあげたり、例えば「今はどんな感じ?」とか「その時はどう思った?」なんてことを尋ねたりしながら、目の前の風景を一緒に眺めたり。

受け止めない代わりにぼくのできることはたったのひとつ。

「旅をしよう」
そう伝えること。ただそれだけ。今、たまごっちたちが立っている場所から見える風景には、たまごっちが見たいものが集まっています。それでいいんです。学びには集中と忍耐が必要だから。
ぼくたちがたまごっちたちと共有できるのは、そのちょっと先の世界の話。いま立っているそこから一歩踏み出すと、いろんな世界の風景が散らばってる。そんなことを伝えたい。ぼくがそうであったように、そして多くの先人たちがそうであったように、旅はそれをいろんな方法で見せてくれます。そしてぼくらは、旅の途中で出会ったすべてのものに魅せられていきます。

伝える

みんなそれぞれを懸命に生きている。悩みながらもがきながら笑顔だって忘れたくないたまごっちたちに、教えることなんてなんにもない。誰かに何かを教えられるような生き方をしてこなかったぼくなので、なにひとつ教えることはできない。でもいつかどこかで思い出すかもしれないことを、伝えることは出来るはず。それをたまごっちたちは、自分自身の旅の途中で探して見つけて知って分かって思い出してくれたらそれでいい。思い出さなくったってそれでいい。

旅をしよう

旅をしてください。お互い(相互)に分かち合う(理解)ためには、心が通じ合う(連携する)時間が必要です。だから、わざわざ訪ねてまでも会いたい人を見つけたらわざわざ訪ねてください。訪ねられないなら「会いたいです」と、伝えてください。

今はいなくても、今は会えなくても、目の前にいる人とさまざまな感情を分かち合ったり、伝えあったり、教えあったり、語り合ったり、思いあったりしているうちに、いつかきっと、そんな人たちに会える時が来ます。その時を掴まえて大切にしてみてください。もちろん会えなくったって、会いたいと願った気持ちを大切にしてください。そういう気持ちを毎日の生活の中で持ち続けることも、実は旅そのもの。

「いつもとほんのちょっと違うことをしてみる」
ぼくは生活の中に埋もれがちな旅を大切にしています。生活にも旅が詰まっていて、生活こそが旅だということも覚えておいてほしいです。

山形で日本の世界のどこかで、またたびの途中で会いましょう。

かっくん/海岸沿いの平屋の一軒家にて