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俺ガイル同人誌刊行宣言

はじめに


 『俺ガイル』とは何だったのか。

 『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』、通称『俺ガイル』は、2011年3月に刊行が始まった渡航によるライトノベルであり、2012年に始まった複数のコミカライズを皮切りに、2013年に放映されたTVアニメ第1期、同年に発売されたゲームなど、各種メディア展開を経て、原作は2019年11月に発売された第14巻で一応の完結を見た。
 震災直後に刊行が始まり──実際に震災の影響で1巻の発売が遅れたことも、ひとつのメルクマールとなろう──、2010年代を横断しつつ、20年代に橋渡しするように続いたこの作品は、『このライトノベルがすごい! 2014』にて作品部門第1位を獲得したのち、2015年、2016年と三連覇を成し遂げ、史上初の殿堂入りを果たした。また、2019年12月時点では全世界累計発行部数1000万部を超えるなど[1]、名実ともに2010年代の覇権を握ったライトノベル作品と言っても過言ではないだろう。

1. 問題提起──『俺ガイル』の内容分析が希薄である状況について

 ところが、こうした赫々たる事績とは裏腹に、『俺ガイル』という作品の内実が十全に研究されてきたとは言い難い。

1.1 長寿シリーズの宿命

 その理由として、まずは約10年続く長寿シリーズだからだという点が挙げられよう。たとえば2011年の1巻発売時点で13歳(一般に中学1年生の年齢)だった読者も、最終14巻が発売した2019年には21歳とすっかり大人になっており、相次ぐ人生の節目のどこかで作品を離れていても何らおかしくない。

 また、複雑化する物語が、その内容を十分に検討することを妨げている。
 『俺ガイル』は、トークイベントなどによる筆者の区分けに従えば[2]、大別して4つのシーズンに分けられる。

  1. ラブコメを意識しつつ、事故の伏線を回収してゆく過程で人間関係に翳りが見え始める1stシーズン(1-3巻)

  2. 表向きの事件を八幡が自己犠牲を伴って解決しつつ、「知る」ことがテーマである2ndシーズン(4-6巻)

  3. その八幡の手法が明るみに出ることで雪乃や結衣の反感を買い、さまざまなことを「疑う」ターンに入りつつ、「本物」概念の提示で一時的な解決を見る3rdシーズン(7-9巻)

  4. それまで八幡による一人称視点で描かれていた物語に、雪乃や結衣の語りが登場し、青春群像劇の様相を呈しつつ、人間関係の問題が「言葉」そのものの問題へと派生してゆくfinalシーズン(10-14巻)

 以上がその4つである。

 それぞれのシーズンごとに作品の趣向がやや異なり、1stシーズンのやや明るい雰囲気や2ndシーズンのスカッとジャパン的解決法を好む者もいれば、むしろ3rdシーズンやfinalシーズンの内省的、抽象的な物語を好む者もいる。こうした傾向が、物語が包括的に分析されてこなかった一因であるように思われる。
 それに加え、幕間に挟まれる7.5巻をはじめとした短編、いわゆるifルートである「結」シリーズ、BD・DVDの特典のみに付属するanotherシリーズ、「正当な」続編である「新」シリーズや各種アンソロジーなど、内容を十全に検討させることが難しい要因は枚挙にいとまがない。

1.2 学術研究の偏り

 学術研究の場も例外ではない。むろん、たとえば社会学の分野などでは、『俺ガイル』は「スクールカースト」ものの典型として、むしろ積極的に名前が挙げられるが[3]、そうした研究の多くは、先の区分における1stシーズンや2ndシーズンに当たる初期の内容を参照しており、「スクールカースト」以外の視点から検討を加えているものもなくはないが、やはり長期シリーズゆえに、finalシーズンまで十二分に検討できている論攷は、現時点ではほとんど存在しないと言ってよいだろう[4]。
 ほかにも、同じ社会学の分野ではいわゆる「聖地巡礼」ものとして、コンテンツツーリズムの一環として触れられることはあるが[5]、『俺ガイル』自体がメインで論じられているわけではないし、言うまでもなく、これは外在的分析であって、内容面に特化した研究ではない。
 あるいはかろうじて、戸塚彩加を題材としたジェンダーに関する研究[6] や八幡における専業主夫への憧憬に関する内容分析[7] が存在する(した)ものの、それもまた、当該分野に特化した研究であり、作品の内実そのものに集中するものではない。

1.3 「二次創作」の領域

 それよりは比較的私的な領域、すなわち二次創作においても、内容分析に関しては、状況は必ずしも芳しくない。
 わけても、SSと呼ばれる小説二次創作の領域では、『俺ガイル』に関連する作品こそ数多あるものの、当然ながら二次創作ゆえに、原作の優れた解釈を提示するような作品というよりは、独自の解釈を施したり、原作からは大きく逸脱するような作品も少なくない。
 とりわけ「比企谷八幡」は、原作の設定を踏襲したキャラクターというよりは、かなり装飾が施された人物となっており、多数の作品とクロスオーバーし、さらにはVtuberと絡められるなど、かなり独自の変遷を遂げている。もちろん、二次創作の自由な発想を咎めるつもりは毛頭ないし、それ自体興味深いものがあるが、ともかく、原作の内実から逸脱していることはたしかである。
 あるいは「公式」すら、もはや二次創作の様相を呈している。今でもキャンペーンが張られることは目を見張る事態かもしれないが、ここぞとばかりにヒロインたちをはだけさせ、欲望が剝き出しとなったプロダクトを認可し、あろうことか、終盤にはほぼ登場しないはずの小学生女児にスクール水着を着せて商売道具にする。そのさまは、資本主義のゲームとしてはきわめて正しいかもしれないが、原作の内実を尊重しようという倫理は感じられない。 

2. 何のための同人誌か

 こうした『俺ガイル』という作品それ自体の分析が進まない、膠着した状況を打破すべく、われわれはここに、『俺ガイル』同人誌『レプリカ』の刊行を宣言する。したがって、われわれ『俺ガイル』研究会が志向するのは、さしずめ「作品そのものへ!」といったところになろう。
 とはいえ、アプローチの方法はさまざまである。つづく論攷・エッセイ等で明らかになるように、誌内においてさえ、個々人によって趣向も、結論も異なる。ある者は『俺ガイル』をミステリとして読み、ある者はそのストーリー構造そのものに着目し、ある者は遠回りしつつ長い「橋」を架け、ある者は一人のキャラクターの戦略を「分析」し、ある者はそこに実存を賭け、ある者はそこに「ラブコメ」の変遷を読み、またある者はそれが「テクスト」として読まれてこなかったことを嘆く──。

 こうしたアプローチの多様性は、ひとえに、そこに属する者たちの多彩さに因る。生まれも年齢もジェンダーも、いわゆる文系/理系も、ほとんどすべての境遇を異にするわれわれは、『俺ガイル』という唯一の基点に惹かれて連帯した。顔も見たことのない人々が、『俺ガイル』という作品だけをよすがに、約二年、毎週のようにWatchPartyで俺ガイルのアニメを視聴し議論を交わしたり、新巻が出るたびに討論会を行ったり、そうしたオンラインでのやり取りを継続できたことそれ自体、『俺ガイル』という作品の求心力を物語っているのかもしれない。
 もとより、われわれの多くは個々人で『俺ガイル』に関する批評・考察や小説作品等をネット上で発表していた。そこにはすでに、全巻に渡る緻密な内容分析やTVアニメ版についての考察、秀逸な小説群が数多く存在する。

 しかしだとすればなぜ、わざわざ同人誌という紙の本を出す必要があるのか。
     一つには、紙でなければ残らないという実感がある。電子のデータがいつ消えるかわからない、ということは、ここ数年で多くの人が身をもって体験したことなのではないか。
 二つ目には、当然ながら、ようやく作品が一応の完結を見た今だからこそ振り返れるということがある。作品を冷静に振り返るという点でも、そして完結を機に一度は離れた作品に戻って来るという点でも、今という時期が適切ではないかと思ったのだ。今しかできないこと、ここにしかないものもある。
 三つ目には、それが「呼び声」を兼ねているということがある。先にわれわれ俺ガイル研究会の面々が約二年間、活動を重ねてきたと述べたが、この刊行宣言を読んでくださっている方のうち、いったい幾人がそれを知っていただろうか。内輪でのみ議論を深めるのをやめ、外にひらくこと、そして繰り返すが、すでにネットにある諸記事を広く知ってもらうために、同人誌という媒体を用いることにした。

 われわれが賭けているのはとりわけ最後の点だ。つまりこれは、われわれがまだ知らない、既存の、ないしは、来るべき『俺ガイル』論のための、「呼び声」なのだ。したがって、つづく続刊では、広く『俺ガイル』を考える方々の寄稿を募る予定である。
 それに備え、創刊号となるvol.1では、間口を広げる意味で、さまざまな方面から『俺ガイル』を読む・・ための論考・エッセイ・二次小説を掲載する。「作品そのもの」を志向することには変わりはないが、ここで既存の内容分析を繰り返すことはあえてせず、むしろ「呼び声」のほうに専念した次第である。

 つまりこれは再読の誘いだ。どうしようもなく『俺ガイル』に揺さぶられて、どうしようもなく諦めの悪い、引かれ者の小唄だ。


    願わくば、この模造品レプリカに、壊れるほどの傷をつけ、たった一つの本物に──


企画・責任編集 才華
 


【脚註】
[1] 以下を参照。 「『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』が全世界累計1,000万部を突破」ラノベニュースオンライン、2019年12月19日、2022年12月3日最終閲覧。https://ln-news.com/articles/103752
[2] たとえば「『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』最終巻が100倍面白くなる「俺ガイル」語り」(小学館カルチャーライブ、2019年)など。
[3] 『俺ガイル』がスクールカーストもの、ひいては若者論の文脈でどのような論文が論じているかについては以下によくまとまっている。玉井建也「ラブコメ作品と状況としてのキャラクター」東北芸術工科大学紀要第29号、2022年、1-9頁。
[4]たとえば松永寛和「ライトノベルにおける「作家」の存在―複合メディアにおける創造性」(博士学位論文、2016年)は、いわゆる「男の娘」や他者不在の問題など、要点を抑えた検討を概略的ながら施しているが、シリーズ完結前に上梓されたため、当然ながらfinalシリーズの検討が含まれていない。
[5] たとえば池田和子「ティーンエイジャーの「聖地巡礼」経験に関するアンケート分析」『E-journal GEO』第16号、日本地理学会、2021年、48-56頁。
[6] cf. 久米依子「クィア・セクシュアリティを読むことの可能性:谷崎潤一郎「秘密」から江戸川乱歩「屋根裏の散歩者」へ」『昭和文学研究』第77巻、昭和文学会編集委員会、2018年、2-30頁。ただし、2022年12月現在、該当記事は取り下げられている。
[7] cf. 酒井美優「ライトノベルにおける男性主人公のキャラクター造形にみる女性性への憧憬」『ジェンダー研究』第22号、東海ジェンダー研究所、2020年、63-86頁。


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