【考える取り組み】スピッツ1
又お会いできて嬉しいです。
今日はスピッツについて考えてみたいと思います。
私はスピッツがとにかく好きです。高校の時に部活をサボって長野まで一人でライブに行ったり、中学の時から何千回と彼らの楽曲を摂取してきました。高校の時に行った自由研究でも、私は詩を一年書くという研究をしていたのですが、そのきっかけになったのも彼らの楽曲の詞の美しさでした。
そんなスピッツで人生が彩られてきた私にとって、衝撃の事実を今日偶然目にしました。なんとあの『空も飛べるはず』にアルバムに収録される前のオリジナルverがあり、歌詞も違うというのです。。。。。。!!!!
それがこちら
よく知られたverは下のこちら
2曲は歌詞の大事な部分がまるで違う歌詞になっているのです。元の歌詞とよく知る歌詞を見比べてみましょう。
そう、奇跡ではなく痛みなのです。しかし、その他の歌詞は大きく変化してはいません。サビのフレーズを大胆に変更すると、文脈が変わってしまいそうなものですが、草野マサムネ氏はこの二つの歌詞を等価と捉えたゆえあえてそのままにしたのでしょう。つまり、奇跡と痛みはほとんど同じ意味合いであると彼は考えたことが考察できます。
個人的な解釈にはなってしまいますが、誰か本当に大切にしたいと思う人に出会えたときに、私たちは痛みのような感覚も同時に味わうのではないでしょうか。
大切に想えば想うほど、その気持ちを100%言葉に乗せて相手の心に通わせられない「痛み」。どのような形であれ、いつか大切な"君"を失ってしまう「痛み」。心を傷みつけられるほどの相手は、往々にして大切な人です。
愛する人に出会えた「奇跡」と「痛み」。反対の概念のようで、互いが互いを内包するような関係性。多くの人にとって共通する普遍的な矛盾を、このオリジナルverは伝えようとしています。
他にもこんな変更点があります。
ここでいう着替えた季節とは何でしょうか。様々な解釈ができますが、私は「春」だと思います。理由としては前後の文脈です。最初のサビの同タイミングで流れるフレーズは『空も飛べるはず』と『めざめ』も共通しており、以下のようなものです。
夢を濡らすという表現は、枕を濡らすに近い響きがあります。歌詞の中の"私"は、夢に涙を流したその悲しみを、どこか遠い海原へ放とうとしています。そして悲しみが遠くへ離れたその時に望むものは、ずっとそばで笑う"君"なのです。
以上を踏まえた上で、先ほど紹介した着替えた季節とは何を指すでしょうか。冬は生命が一度死を迎える季節です。草花は枯れ、動物は眠りにつき、土は凍ります。どちらかというと悲しみや物事の終わりを想起させるような季節です。一方春は生命の息吹が復活する季節です。日本では過去が終わり、新たな何かが始まる節目の季節でもあります。
着替えた季節はそのような春の緑と桃色の息吹のイメージを、僕に抱かせるのです。そんな新たな季節に、そばで笑ってくれる"君"がいることを"私"は望んでいるのではないでしょうか。
まとめると、変更前の『めざめ』の歌詞が私は大好きです。"奇跡"よりも"痛み"の方が、愛する人を前にした時の感情の本質を捉えているような気がするし、着替えた季節が僕たちを包むという表現も、過去の悲しみに完全にケジメをつけて迎えた新たな季節と"君"という要素がより印象的に繋がっている気がするからです。
いやしかし『空も飛べるはず』の歌詞もやはり良いよな。。。
本日はここまで。
今日もここまで来てくれてありがとう!
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