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#35 群盲像を評す
指導案やレポートなどを書く時に、つい専門的な言葉を使ってしまうことがあります。
「資質・能力」「ウェルビーイング」「エージェンシー」…など「よく耳にしている言葉」ほど、相手にその意味を説明するのは意外と難しいものです。
そんな時、私は「ある絵」を思い出します。
「群盲象を評す」というインドの寓話の挿絵です。(複数の人が像の体を触っている絵です。時代や国によって色々な絵が存在していますが、ネットで検索してみてください。)
この寓話のあらすじを説明すると、こんなお話です。
ある日、目に見えない人たちが「象」とはどんな動物なのかと感想を尋ねられることがありました。彼らは目が見えないので、各々が自分の手で象を触って分かったことを説明しました。
鼻を触った盲人は「象とは神輿の棒のような生き物だ」
足を触った盲人は「象とは臼のような生き物だ」
尻尾を触った盲人は「象とは縄のような生き物だ」
とそれぞれが違うことを主張し、自分の考えが正しいと譲りませんでした。
これは「一部の事実のみを信じて、ものごとの本質が見えていないこと」の滑稽さ伝えた話だと言われています。
なぜ今回この話を紹介したかというと、「言葉」でも同じことが起きているのではないかと感じたためです。
例えば3年前の2021年1月に中央教育審議会答申で「個別最適な学び」というキーワードが示されましたが、あれから3年経った今「個別最適」と聞いて、皆さんは頭のなかでどんな授業をイメージしますか?
このような言葉ひとつとっても、人によってそのイメージは少しずつ違うのでは?と感じています。
先ほどの「群盲象を評す」と同じように、「この本にこう書かれていた…」「このサイトでこう説明していた…」というのはあくまで解釈の一つでしかないと思うのです。ややもすると「勉強すればするほど、はっきりとその言葉を定義することは難しくなる」ともいえそうです。
では、私たちが「わからない言葉を調べたり、勉強したりすること」に意味はないのでしょうか?
結論から言うと、決してそんなことはありません。
ここからは私の考えになりますが、確かに「膨大な情報に振り回され混乱してしまう」のはよくありませんが、いろいろな人の考え方にふれて「新しい視点」や「立場」を知ることは大切です。
社会科や道徳でいう「多面的・多角的なものの見方」にもつながると思います。
また人によって全く違う解釈の中にも、その根底にある共通する考え方や感じ方など「確からしい何か」が分かることもあります。
このように私たちは人との「対話」を通して、修正を繰り返すことでその言葉の「輪郭」がぼんやりとつかめてくるような気がします。ここに「言葉の群盲」にならないためのヒントがあるのかもしれません。
「一つの情報だけで納得しないこと」「複数の情報に翻弄されないこと」
このバランス感覚は授業や、教材研究でも大切なことだなと思います。
最近テレビで「ネガティブ・ケイパビリティ」という言葉を耳にしました。イギリスの詩人上ジョンキーツが提唱した「不確かなものを考え続ける力」のことです。
「答えを出す」こと以上に実は「考え続ける」行為の中に「新しい発見」があるのかもしれません。
言葉だけでなく「答えのないものを考え続ける気持ち」をこれからも大切にしていきたいと思います。
最後まで読んでいただきありがとうございました。