いつでも繋がれるこの時代に、あえて繋がらない
わたしが高校生だったころ、地元の松山には、「カップルで行くと別れる」、と言われている場所がいくつかあった。
伊予鉄高島屋の屋上にある観覧車、「くるりん」もそのひとつだった。
観覧車が松山をくるりと一望できることからこの名前が付けられたらしい。
くるりんは1周15分で、松山城や瀬戸内海まで見渡すことができる。
15年前に高校生だったわたしも、そのとき付き合っていた子とくるりんに乗った。
当時はGReeeeNが大流行していて、みんなが愛唄をうたっていた。
生まれたときから松山にいるわたしたちにとって、松山城や瀬戸内海は目新しくもなく、15分間ずっと、その子の持っていたiPod nanoで、一緒にGReeeeNを聴いていた。
観覧車の15分は、あっという間に終わったけど、15年たった今でも、その子と観覧車に乗ってGReeeeNを聴いていたのは覚えている。受験勉強をそろそろ始めるか、というような時期だったと思う。
その子とは5年ほど続いて、大学3年のときに別れた。今、どこで何をしているのか全然分からない。今はSNSもあるし、繋がろうと思えば繋がる手段はいくらでもあるんだろうけど、今のところ繋がってない。その子も同じかもしれないし、わたしのことなんて、もう思い出すこともないのかもしれない。
いつでも繋がれるこの時代に、あえて繋がらないようにしている、わたしの中にそういう人が何人かいる。今さら話すことなんてなかったり、過去のこととして放っておきたかったり、人によって理由も違う。
くるりんを見て、その15分間をちょっと思い出すだけでいい。おそらくこの先会うことはない。そういう人たちとの、観覧車のゴンドラのように外の世界と区切られた15分間ずつの思い出が、きっとたくさん重なりあって、今のわたしを作っている。