小便器はソフトウェアである
はじめに
普段からあまり役に立たない内容を書いているこのnoteではあるが、今回の記事はいつもに輪をかけてたわごとである。
というのも、普段は調べた内容や実験した結果が記事のメインを占めているが、今回のものにはそれがない。僕がふと考えたことについてただ書き連ねるだけの内容になっている。
つまり、完全に時間を無駄にする可能性がいつもの記事に比してもかなり高い。(というかたぶん100パーセント無駄になる。)
もしもこれを読んでくださる方がいるのであれば、それをご理解の上よろしくお願いします。
裏を返せば、役に立つ見込みもなく、下地になった調査もないのにこうして一本の記事を書いているのは、それだけ僕がこの「ふと考えたこと」について書き留めておきたかったというのが理由にある。
そしてその書き留めておきたかったことが、タイトルの内容だ。
つまり、「小便器はソフトウェアなのではないか」という思い付きである。
何が多様な形状をもたらしているのか?
僕がこの思索を得たきっかけは、常々、男性用の小便器は極めて形状が多様である、ということを実感していたことにある。
もっとも一般的なのは恐らくこのような形状の「ストール型」と呼ばれるものだろうが、
古い公衆便所などだと今もこういう小さいものをよく見かける。
逆に大型量販店などにある新しいトイレではここで紹介されているような形状のものが多い。恐らく、横に目隠し部分がないことで使用者が自然と便器に近付くようになり、飛び散りが減って掃除が楽になる…というような狙いのある形状なのだと思う。(余談だが、そのメリットは理解しつつも、使用者としてはこの形状はあまりにも心もとなく、好きでない。)
京都の嵐山のどこかの店に行った際には、こういう下部が壺状になっているものを見かけて感心した覚えがある。(半ズボンとサンダルで行っても安心)
また、登山道のような細道沿いの公衆便所や、寺や神社にある古いトイレではたまに、壁沿いの床に溝が切ってあり、その部分の壁がタイル張りなどになっているだけ、というものを見かけることもある。
もはや小便「器」ではないが、その壁に向かって用を足せば、自然と壁を伝って足元の溝に流れるために最低限それで実用に堪える、というわけだ。
もちろん、こんなものは単なる一例でしかない。数軒施設を回ればここで挙げたのと異なる様式の小便器を見つけることが出来るだろうし、細かな部分に着目していけば、むしろ全く同じ形状の小便器を別の場所で見かける方が稀な気すらしてくる。本当に無数にバリエーションが存在すると考えてよいと思う。
一方で大便器(というか、単に便器)はこうはいかない。大きな形状の差は和式・洋式とタンクレスかどうかくらいで、あとは概ね細かな違いしかないといっていいだろう。もちろん、幅広になったり水が出る場所が変わったりという企業努力の結晶がその細かな部分に反映されているのだとは思うが、小便器ほどのラディカルな多様さはないと言える。
どうして小便器の形状、あるいは仕様がこんなに多様なのかというと、それはおそらく処理の対象とするものの特性のためだろう。
便器の多くが持つ機能として、「出されたものを見えない位置まで送り届ける」というものがあると思うが、小便の場合はそれ自体液体であるため、ある程度の傾斜があれば勝手に流れていってくれる。水で押し流したり、深い穴と直結させたりする必要は特にないわけだ。(もちろん、そうやって処理する方が後々の手間が少ないということは言うまでもないが)
また、基本的に小便器が取り扱うのは男性の小便である。(旧国立競技場など一部を除く)
例外は数多くあるとはいえ、基本的に男性の小便は指向性が高い。ある程度狙った位置に向かって放出することが出来る。
上で「新しいトイレでよく見る」と紹介したような横の袖がほとんどない形状のものが許されたり(個人的には許していないが)サイズの自由度が高いのは、この特性によるものだと考えられるだろう。
こうしたことを鑑みると、男性の小便は、それを処理するうえで非常に都合がいい性質を有しているといえる。言い換えれば、男性用小便器は、機能を果たすための最小の要件が非常に少ないということになる。
機能を果たすための要件が容易に満たせるのでその他の部分について自由度が高く、そこの自由度が高いからこそ形状が多様になっている、というわけだ。
そうなってくると気になることが一つある。つまり、では、その極めて少ない小便器の最小の要件とはいったい何だろうか?ということだ。
小便器の最小要件
いったい何だろうか、と振りかぶりはしたものの、そんなに構えるものでもない。「小便器」という名前がついている以上、その要件は「用を足せること」であることに疑いの余地はないだろう。
それに向かって用を足すことが出来る。それこそが小便器が小便器たり得るために必要な機能であって、様々な仕様がそれぞれに追求する効果は副次的なものに過ぎない。
水洗機能は(あった方がいいが)もちろん必須ではないし、目隠しの袖部分の有無、地面に接しているかどうか、下部が壺状になっているかどうかといった違いにしても、どれも「用を足す」という機能を前提にした上でバリエーションがついているだけのことである。
では、「用を足せる」というのはどういうことだろうか?
それを考える上で一つ手掛かりになりそうなのは、上で述べた「溝と壁」式の小便器(小便所?)である。
これが成立している以上、少なくとも小便器が小便器であるために「器」である必要はない、ということになる。
勝手に流れて行ってくれるのだから、わざわざ器で受ける必要はなく、溝が切ってあってその溝に流れやすくなっていればそれでよい。
そう考えると、小便器が最低限果たすべき機能はやはり、上にも書いた「出されたものを見えないところまで運ぶ」であるということになるだろうか?
水で流す。器で受けて下に流す。傾斜をつけた溝に流させる。
いずれもそれぞれ別の方法でその機能を実現しているように見える。やはりこれが最小の要件になるのか。
いや、これでもまだ最小とは言えないだろう。
そもそも「排尿」のための最小構成に、必ずしも便器は必要ない。
「用を足す」ということの前提に「衣服を汚さないこと」を入れたとしても、別に便器自体が必須なわけでないことは言うまでもないだろう。
本来は別に藪の中でしたっていいのだ。これ自体は小にしろ大にしろ同じである。
ただ、こと「大」の場合、絶対に人が近くを通らないような場所でなければ、さすがに用便後に隠したり、埋めたりという処理が求められるだろう。
これは言い換えれば、「見えないところまで運ぶ」機能を排便者自らが果たしているということになる。「大」の場合は、見えなくする機能を実装しなくては用便の最小要件を満たしているとは言えない。
対して「小」の場合、それは必要ないだろう。下が土などの水を通す素材でさえあれば、用を足した後も見えないところまで運ぶべき対象物自体が残らない。
つまり、小便器に関しては、最小要件を満たすだけであれば、見えなくする機能すら要求されない。
ただそこに放出すればいいのだ。後は勝手に流れるなり浸透なり蒸発してくれる。人間が何も手を加える必要はない。
つまり、小便器の最小の要件は、「何もない」ということになる。本当に突き詰めれば、究極的にはそういうことになる。
だが、それはあくまで物理的な制約に限った話である。小便は自ずと人の目につかない場所へ向かってくれる性質があるため、物理的には、本来人間は何もしなくてよい。
しかし、小便器を「小用を足す場所」として考える場合には、そこに課される制約は物理的なものだけに留まらない。
つまり、倫理的な、あるいは規範的な制約をクリアする必要が出てくるのだ。
回りくどい言い方はやめよう。つまり、「小便をしても罪に問われない」必要があるのである。
法による規範的制約
改めて言うまでもないことだが、便器なしに排尿を行なう行為、つまり立小便は、条例や法によって禁止されている。
街中で行った場合、まずは軽犯罪法に違反することになるようだ。この法令は条文内で立小便を名指ししており、公共の場所での排尿はまず疑いなくこれに違反することになる。
では街中などの場所でなければ認められているのかというと、けしてそうではないらしい。
他人の土地に立ち入れば建造物侵入に問われる可能性があるし、自分の所有地内であっても、それを目撃されれば公然わいせつに問われる危険がある、と上記の記事にある。
つまり、どう潜り抜けようとしても、トイレ以外の場所での排尿という行為は、違法行為となるリスクを伴うということだ。
では逆に、なぜトイレの中であればよいのだろうか。
物理的に目隠しがあるからか?
いや、けしてそうとは限らないだろう。過疎を極めた集落にある、大昔に学校だったが今は地元の消防団の訓練くらいにしか使われないグラウンドなんかには、ただ単独で端っこに据え付けられているだけの小便器があったりする。さすがにこの例はちょっとピンポイントすぎるかもしれないが、非常に年季の入った便所の中に、小便器部分への目隠しが驚くほど考慮されていないものがあるのには読者諸兄も共感してくれるはずだ。
これらは公共の空間と物理的に隔てられているわけではないが、便所であることに疑いを差し挟む余地はない。仮にこうした便所で小用を足しているときに警察官と鉢合わせたとしても、罪に問われることはないだろう。
その辺りの道端で行う排尿が違法であり、こうした開放的な便所で行うそれが合法なのは、ひとえにそこが便所であると合意された空間であるから、であるはずだ。
便所であるということは当然、その場所での排尿が認められていることを意味する。
皆がそこで排尿をしていいと認めているから、それによって罪に問われることはない。そこに倫理的・規範的な課題はない。
小便器が、つまり小便のための便所が満たすべき物理的な要件が存在しないことは前段で確かめた。
満たさなくてはならない要件は、倫理・規範面での課題をクリアできることのみであった。
そしてその課題をクリアするためにも物理的な設備は必要ない。目隠しがなくとも「そこが便所である」という合意さえ形成されていれば、当然そこは排尿可能な空間ということになる。
つまり、小便器が小便器であるためには、水が流れる必要もなければ受ける器がある必要もなく、周囲に目隠しがある必要すらない。
そこが便所であり、それが小便器であると人々が合意してさえいれば、その対象は十分に小便器足り得るのだ。
物理的に何の設備も必要としないのだから、小便器は当然ハードウェアではない。一方で、人々の間で「小便器である」という合意が形成される必要はある。果たすべき機能自体は存在するわけだ。
物理的な実体なしに何らかの機能を果たす。そういうものを分類するとすれば、それは当然、ソフトウェアの範囲に収まるものになるはずだ。
こうして、冒頭に書いた今回のテーマは示された。以上の理由から、小便器はソフトウェアなのである。
そこで排尿可能であることの合意を形成するアプリケーション。それが小便器の本質だ。
おわりに
以上、たわごとでした。物事の本質を慎重に見極めましょう。
「大便器には隠ぺい機能の実装が必須だが小便器には必要ない」の辺りの論理展開が詭弁。
「最近の一部の袖のない小便器は、利用者に近付かせることによってメンテナンスが楽になるメリットがあるが、利用者にとっては心理安全性が低い」というポコチンルッカビリティ(※1)の話がDX(開発者体験の方)とUXの衝突だから面白いな、と思っていてそれもなんとか絡めて書きたかったが、どうもうまくいかないのであきらめてここに書いた。
※1
新しめの施設にある男性用便器が、時折り信じられないくらいポコチンルッカビリティが高い物があり、なんだか恐ろしくなってしまう。 pic.twitter.com/1zSwKd7uaw
— バニラ玉 (@TOYCUT) February 26, 2022