仮面ライダーBLACK SUNの感想

仮面ライダーBLACK SUNのメインテーマはなんだったのか?

 まず、ヒーロー作品では主人公に「悪」という属性を与えない。
 しかし、逆に「主人公に悪を与え、焦点を当てた」作品であろうと思う。

感想



 以下、ネタバレします。





テーマはなんだったのか?

・自覚のない悪性

 であるように思う。

 具体的に「こうしたら差別はなくなる」とか「より良い未来を提示する」ということはテーマではなかった。 徹底したニヒリズム、ペシミズムが最後まで貫かれていた。

 それを前提に書いてみようと思う。
 全話を通して言うと、差別問題というテーマは存在するが、「差別をどう解決してなくすのか?」については、最優先のテーマではなかった。
 悪を描くために差別心は外すことのできないテーマであると思うが、それの「解決」がテーマとしては選ばれていない。


1話で主人公が悪人であるという衝撃

 主人公の光太郎が食事をしていると、外で怪人差別主義者デモとカウンターが衝突し、警官が、被差別の怪人を射殺するというシーンがあった。

 このシーンで、光太郎は、動かなかった。
 店で見ているだけだった。
 無関心に立ち去るのだ。

 通常、こういう事件があったときに、主人公は反応する。
 アグレッシブな主人公なら止めに入るし、動かなかったとしても、何らかの反応を示すだろう。
 ここで、割って入れば、「その主人公がこの物語の正義である」ことが提示される。あるいは、不快感を示すだけでも、「この男には悲劇を悲しむ心がある」ということがわかるのだが、まったくそういう描写はなかった。

 そして、つぎに光太郎が動くのは、老人の借金の取り立てである。
 被差別怪人の中でも最下層であろう、ホームレス老人を情け容赦なく暴行する。顔面を蹴り、踏みつけ、しわくちゃの札をむしり取る。
 ふつう、主人公が弱者を虐待するシーンというのは、普通入れない。
 

 極めつけは、光太郎がヒロインの葵と出会う理由も、「金銭目的の暗殺」である。斡旋人から、「子供の暗殺はだれもやりたがらない」というのに、光太郎は特に逡巡もなく引き受けてしまう。

 主人公は1話、葵の取り合いでクモ怪人と戦うのだが、それは「獲物の取り合いでバッティング」しただけで、動機は正義の理由ではまったくなかった。
 葵を殺すのを踏みとどまった理由は、「たまたまキングストーンを持っていた」それだけである。

 それら行為は、徹底した「主人公は悪である。」という提示であった。
 客観的に、属性だけを観れば、光太郎は悪人に属すると思う。
 しかし、完全なる悪ではない。
 2話目で、少年が死にかかっているときに、信彦に治療するように促す。
 このあたり、無謬の善はないように、完全な悪はいないという提示であるとは感じる。

2話以降、崩された政治闘争の無謬性

 2話以降、過去編が描かれる。
 50年前の学生運動をモチーフにして、出発したゴルゴムの成り立ちが描かれる。

 リンチ惨殺、火あぶり殺人シーンから始まる。
 しかもこれは、本来戦うべき「差別」が原因ではない。
 政治闘争の内ゲバで、内部ではリンチ殺人、火あぶり殺人が横行しているという描写である。
 しかも、その火あぶりにされた怪人の死因は、「差別のせいで殺された」ということにされてしまっている。
 繰り返しになるが、動機も行動も組織内の粛清である。
 ピルゲニアは、差別で同志が殺されたと演説する。
 つまり、あとから過激化するとしても、最初のころはきちんとした集団だったんだろうという前提を、2話の冒頭で崩されてしまった。
 これで自分は混乱した。
 どうしたって、反差別を唱えることそのものには、悪がないのだ。
 最初は正しかったという描写でもいいはずなのだ。
 しかし、開始時点から組織内のリンチ殺人を挟まれてしまっては、感情に逃げ場がない。
 ヒーロー作品ならば、ほぼ絶対にこの作り方はしない。
 物語の終盤で、ピルゲニアは、過去と現在を悔み「どこで間違ってしまったんでしょうか?」と言う。
 このゴルゴムについて言えば、「最初から悪であった」というのが製作者の回答だろう。

過去編での主人公たちの動機の欠落

 仮面ライダーBLACK SUNの主役は光太郎と信彦の2人である。
 それは今作でも変わらない。
 2人は、暴力運動には参加したくないといいながら、美人につられてゴルゴムに参加してしまう。
 ヒーロー作品ならば、
「虐げられている怪人を実際に目にして、どうしても我慢できず、止めに入る。(裏ではあくどいことをやっているゴルゴムに、そのことを知らずに身を投じた)」
 という動機にするだろう。 
 しかし、今作では女性の魅力に目がくらんで、裏ではリンチ殺人を行っているゴルゴムに、引き込まれてしまったのである。
 これも、製作者の狙いがあると思う。
 あえて、正義の動機を与えなかったのだと思う。
 そして主人公たちは、より深い悪の暴力へと堕ちていく過去が描かれる。


過去編での総理の孫の誘拐と恋愛劇

 露悪的な侮辱シーンと拷問シーンが繰り返される。
 純正なヒーロー物ならば、本来入れないシーンである。 
 主人公たちへの評価を著しく落とすからだ。
 拷問、侮辱、暴言、リンチをやると、主人公への評価はてきめんに落ちる。
 味方がそういうことをやった場合、ふつうは止めに入る。それが主人公だ。
 しかし、あえて主人公一党に非道をやらせている。
 特に、誘拐した総理の孫を木にくくりつけて、そのまま大便を漏らさせるシーンは、主人公一党たちに嫌悪感を抱かせる効果を狙ったものだと思う。
 あのシーンを見て「胸がすっとする」という人は多分いない。
 そして、山岳地帯での内ゲバと争いが始まる。
 そういう狂った状況の中で描かれる恋愛劇と、主導権の取り合いが過去編の核心である。
 これで、主人公が、どんなに美しいこと言ったとしても、「過去の狂気と悪が引っかかる」作りにされている。


登場人物の誰もが抱えている悪性

 邪悪な政権とそれに癒着する怪人という構図が一貫して描かれる。
 誰もが協力し、相克を乗り越えれば、よりマシな未来があるはずなのだが、誰もが他人を出し抜こうとしたり、怒りを煽って利用しようとしたり、粛清しようとしたり、潰しあう。
 そして、大半の誰もが追い詰められながら、自分が悪であるという自覚を持たない。
 むしろ、正義の側だとさえ思っているフシがある。

 完全な邪悪と呼べる存在は、ルー大柴演じる堂波ぐらいなのではないだろうか。

 大半の登場人物が、なんらかの悪性を抱えている。

 光太郎と信彦の決戦でのセリフである。
 光太郎は「ゆかりの望んだ世界に嘘はないと俺は思っている」と言う。
 ゆかりは
「平等な世界を私達が作る」
「約束する。怪人が怪人のまま生きられる世界のために。私は永遠に戦うから」
 と言う。
 しかし、実際には嘘であり、ゆかりは裏切り者のスパイであることが示されている。
 それを知っているのは信彦である。
 信彦はゆかりの裏切りを伝えず、「俺はあの頃に戻りたい」
 と言い残して死ぬ。

最後の最後、これ以上ない邪悪に落とされたヒロイン

 葵は最後まで、
「光太郎が自分を金のために殺しにきた、汚い殺し屋である」
 ことを知らない。
 自分に闘い方を教えてくれた、優しいおじさんだと思っている。
「私が受け継ぐから、止まっていいよ」
 と、自我をほぼ失った光太郎に葵は言う。
 その受け継いだものとはなんだったのか?
 人を愛することだろうか。
 否である。
「闘い方」だった。
「闘い方を教えて」という言葉が、最悪の形で作用した。
 光太郎たちの闘争は、最初から決定的に間違えていたからだ。
 最後のラストシーン。

「成長した葵が、医者になって、怪人と人間の孤児院も開業し、何とか平和のために微力を尽くしていた」
 という終わりであれば、物語は相当救われたと思う。

 しかし、そういう救済は一切用意されなかった。
 怪人差別と戦うために、ヒロインの葵が、取った選択は、
「児童を少年兵の爆弾テロリストとして洗脳教育する」ことだった。
 受け継いだものは、更に進化した悪によるテロリズムだった。
 国連の集会で
「人間も怪人も命の重さは地球以上、1gだって命の重さに違いはない」と口にしていた葵が、
「子供という最も弱い立場に爆弾を作らせて、少年兵として洗脳し尖兵として使い潰す」
 という邪悪に成り下がる。
 この矛盾に製作者は絶対に気づいている。

 最後の最後まで、一貫して、悪を描いた。
 葵は、
「悪いやつが生まれる限り、戦うよ」
 と言う。本人がその悪であることに、葵は気づかずにその道を進む。

結論


 世界的に最も正しく見える属性である「差別に反対する少女」を、悪に堕とすことを、「ラストのエンドとして用意した」という意図だったと思う。


「どんな高潔な人間でも、悪を抱え、悪に堕ちる」と、描ききるためには、葵をこれ以上ない悪として描く必要があった。

 光太郎は葵に受け継がせたかったものは、間違いなく、そんなものではなかったのだが。

「人間の悪性に自覚のない負債は、世代を超えて続き、邪悪と戦ううちに邪悪になってしまうという悲劇」を描き切るためには、あのラストしかなかったのだろうとも思う。

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