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社会人一年目の私へ

バブル崩壊後の1995年の四年制大学卒業の女子大学生の就職先なんて、探しても探しても見つからなくて、みんな就職できない人だらけだったので、どこにも決まってなくても案外みんなのほほんとしたもんだった。

だって就職氷河期だもん(開き直り)。

そもそも。

文学部国文学科なんかに進学してしまった私達は、入学早々とある教授に

「君たちが学んだ事を生かせる仕事にもし就きたいと思ったら、3つしかない。教員(研究者)になるか、編集者になるか、作家になるかだ。ほとんどの人はそれとは関係のない、営業や販売やその他の仕事に就くだろう」

と予言された。

それは呪いの言葉のように私の中で熟成されて、そのどれかになるべく4年間を過ごした。

作家(私の場合、漫画家)は申し訳程度に目指して大して投稿せずにあっという間に4年間が過ぎたので諦めた(この頃はもう同人誌もやってなくて、大学の漫研でしか描いてなかった。出版社への投稿も一度だけ、そんなに情熱はなかった)。

編集者も何社か教育関係の本を出している出版社を受験したが、ほとんど書類ではねられるか、最初の面接で落とされた。まぁ、ほとんどが募集人員若干名、ばかりだ。一番いいところまで行ったところで最終面接の一個手前までだった(大手ばかり狙うから……と思われるかもしれないけど、小さい出版社はその頃募集すらしてなかった)。エントリーして、履歴書(……自体が特殊でポートフォリオみたいな感じだった。自由に書くところがいっぱいあった)を出して、筆記試験も受けて、面接も二次くらいまで進んで……でも結局ダメだった。

そことは別に、バイトでお世話になっていた学●さんも二次面接くらいで落ちて、バイトしてた編集部で「どうだった?」と聞かれて「ダメでしたよ」と言うと、「うちの編集部でバイト枠で雇ってやるよ。編集の仕事、一から教えてやるから東京出てこない? 仕事を覚えれば、編集者としてどこの出版社でも使えるようにするから」と言われたけど、そこの仕事はそこまでしてどうしてもなりたいわけじゃなくて、結局お断りした(そこの編集部は教育関係ではなく、占いとか不思議な現象とかを扱っている雑誌の編集室だった。教育雑誌か学参をやりたかった)。バイトから、なので月収は17万くらい、という提示だった気がする。諸々の社会保障は無し。その上で東京で一人暮らし。うん、自分には無理でそ。

就職活動に対して不真面目だったので、大学4年の夏が過ぎて秋口に入ったくらいで就職活動をやめてしまった。卒論にも専念したかったし。

12月に無事卒論を出すとあとは夏に友達何人かと申し込んでおいた卒業旅行のタイ旅行が2月に控えているくらいしかイベントがもうなかった。このままならプー決定だし。

しかし1月に新聞の募集広告で私立の中高一貫校で教員募集が出ていたのを親が見つけて「出すだけ出してみたら?」というので履歴書を出してみた。するとすぐに試験の予定が送られてきたので、1月の末ごろに筆記試験を受けに行き、結果と面接は後日……と言われた。2月に入ってすぐにタイ旅行があるけど……なんとかなるか?どうせ受からんだろう(落ち慣れていた)と思って、卒業旅行に行ってしまったのだった。

するとタイに着いて1日観光してバンコクからプーケットに渡って夜チェックインしたホテルで、フロントから「日本から国際電話が来てます」と言われたので、すぐに折り返してみた。

案の定、「筆記試験が通ったので、明日面接に来て下さい」と連絡が来たとの事だった。学校からの電話は母が受けてくれて、「今ゼミの合宿で長野に行っていることにして誤魔化しておいた」という事で、「後輩の指導など(ゼミ長だったし)色々引き継ぎもあって、明日ではなく、明後日なら面接いけます」と私になりすまして折り返しの電話をして返事してくれたらしいので、1日しか観光してないが、すぐ帰る事に(なんて機転のきく母!)

すぐに現地ツアーガイドのポンさん(25歳、男性。日本語堪能)に帰らねばならないことを伝えると「とにかく飛行機はキャンセル待ちするしかなく、バンコクから日本への便は夜に出る便(1日1本)しかない。ので今夜は寝て、明日現地旅行会社の人たちが頑張ってキャンセル待ちチケットを取るので、それまでは遊んで待ってなさい」という。

一晩寝て起きて、仕方ないのでパラセーリングとか、シュノーケリングとかしながら待っていると昼くらいに「取れた!」と連絡をもらった。パックツアーなので、帰りのチケット代(パック代より高い)などの持ち合わせはなく、当時クレジットカードも持っていなかったので、クレカ持ちの友達にお金を借りて、ポンさんにはプーケットの空港まで送ってもらって、プーケットからバンコクのチケットを受け取りそして「バンコクに着いたら、キャンセル待ちして取ったチケットは買えるはずだから、向こうで予約を押さえてくれているホニャララさんに会って、チケット代を渡して交換してもらい、飛行機に乗ってくれ」のような事を言われたので、お礼を言ってプーケットでポンさんと友達と別れた。

バンコクに着くと、タイ語しか話せない胡散臭いおじさんに話しかけられて、おっかなびっくりお金を渡してチケットに変えてきてもらい、なけなしの英語力で搭乗口まで辿り着き、一応もう一度国際電話を家にかけてスーツとストッキングとかばんを持ってくるよう母にお願いして、成田まで迎えに来てもらう事にして、飛行機に乗り込んだ。夜9時過ぎだったかな。翌朝6時くらいに着く予定で、朝9時半くらいから面接予定だった(確か)。

そうして無事間に合った。車の中でスーツに着替え、面接に臨んだ。面接のお相手は校長先生と事務長先生だった。校長先生は筆記試験の点数を指差しながら「漢文のこの点数(7割くらいしか取ってなかった。現文と古文はほぼ満点だった筈。センター試験レベルだった)で本当に教えられると思っているのか?」のような圧迫面接を受けてしょんぼりと帰宅し、その日の夜には事務長から電話で合格を告げられたような気がする(確か)。事務長の話では点数は受けた人の中では一番良かったらしく、受かった人達から聞いた話では、みんな圧迫面接だったようだ(ホッ)。

そんなこんなで。

社会人1年目は、非常勤講師だったが、なんとか国語の教師になった。コマ数も最初は少なくお給料は僅かなものだったが、2年非常勤講師の後、専任になったら中3の担任ももち、お給料は最初の年の2.5倍くらい貰えた。

そこの学校は4年勤めて辞めることになったが、それは職場結婚をしたためで、転職活動を頑張って他の学校にその後は足かけ15年勤めた。出産が3回あって正味は11〜12年間くらいかもしれないけれども、その間非常勤→専任→非常勤、と出たり入ったり。子育てしながら近くに頼れる親も居ないとなると、やはり専任では難しかった。最後は家庭の事情(社家の仕事を覚えて欲しいと義父に言われ、神職の資格も取った。教師は忙し過ぎるからやめてほしいと言われた。あとはちょうど子どもたちが受験期だというのもあった)で辞める決断をしたけれど、でもかなり楽しい19年間だった。そして今は時短で融通のきく仕事をのほほんと。もう2年半になる。これもかなり楽しい仕事だ。

なんとなく成り行き任せな人生のような気もするけれど、全部楽しんでいるので、大丈夫だよ。胃の痛くなる日もあったけど、それもすべて糧になってるよ、とあの頃の、社会人1年目の私に伝えたい。

それと色んな人への感謝を忘れないように!!


#社会人1年目の私へ
#エッセイ
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かねきょ(漫画・イラスト)
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