呪会 第3章
亜希子は中学二年生の夏まで山村亜希子という名前だった。
それが両親の離婚で母親に引き取られ、
由実の旧姓の日向に変わったのだ。
それは亜希子の苗字が変わったと同時に始まった。
いじめである。
いったいなぜ自分がいじめられることになったのか、
はっきりした原因は未だ亜希子にはわからない。
当時、亜希子には仲の良かったグループがあった。
そのリーダー的立場にいたのが菅野好恵である。
好恵は気が強くわがままな性格で、
クラスの中でも目立った存在だった。
つりあがっていて冷たい印象を与えるが、
他人をひきつけるぱっちりした大きな目。
肌はいつも日焼けサロンで焼いているらしく
艶やかな小麦色で、
すこし厚めの唇はピンク色の口紅に彩られ、
年齢からは不相応な色っぽさを醸し出していた。
当然、彼女には男の子の取り巻きも多く、
まるで女王のようにふるまっていた。
そんな好恵と内向的な亜希子が
どうして友達になったのか・・・。
先に近づいてきたのは好恵の方だった。
亜希子も彼女に憧れていたところもあって、
好恵の誘いを受け入れた。
もっとも好恵には亜希子と友達になる
明確な理由があったのだ。
クラス内でも下位の成績であった好恵は、
クラス一の秀才であった亜希子に
勉強を教えてもらおうという思惑があった。
というよりもテストのヤマを知りたかった
といったほうが正しいかもしれない。
しかし亜希子がせっかくヤマを教えても、
その問題を解く肝心の学力が好恵にはなかった。
というのも、根気のない性分の好恵は
いくら熱心に亜希子が勉強を教えても、
学ぼうという意欲が微塵もなかったからだ。
亜希子と好恵の仲は、しばらくはうまくいっていた。
ところが亜希子の両親が離婚する頃から、
好恵の態度が豹変したのだ。
最初は些細なことから始まった。
ある日の昼食の時、
好恵がグループ4人分のパンと飲み物を、
購買部で買って来るよう亜希子に頼んできたのだ。
はじめは頼んでいたのだが、
次第にそれが命令口調になった。
そして次には自分達のパン代、
飲み物代を亜希子にたかるようになった。
亜希子はそれを拒んだ。
すると好恵達は、彼女を無視するようになったのだ。
クラスでも中心的な
グループのボスである好恵達がそうすると、
他のグループ達もそれにならうように
亜希子を無視し始めた。
それまで仲の良かった友人もよそよそしくなり、
亜希子と視線さえ合わさないようになる。
ひと月もしないうちに
亜希子はクラス中から無視されるようになった。
他のクラスにも亜希子の友達や後輩はいたが、
好恵の力はそこにまで及んだ。
亜希子は学校にいる間中、
誰とも会話をしない日が続くようになった。
好恵達が亜希子に話しかける時は
金を要求する時だけだった。
だが亜希子はどんなに脅迫されても、
かたくなにそれを拒否した。
すると好恵達のいじめはさらに
エスカレートしていった。
机や教科書に油性マジックででかでかと、
“お前最悪”とか“死ね”と
書かれるようになったのだ。
犯人は好恵達に決まっていた。
以前、好恵達に勉強を教えていた頃に、
彼女達の筆跡はだいだい覚えていたからだ。
亜希子は母親の由実にこのことを相談しなかった。
というより相談する気が起きなかった。
というのも当時離婚したばかりで、
女手ひとつで亜希子を育てると決心し、
今まで以上に仕事に力を注いでいる由実に、
余計な心配をかけることができなかったのだ。
それで亜希子は担任の教師に相談した。
最初は「お前の勘違いだろう」と取り合わなかったが、
落書きされた教科書やノートを見せると、今度は
「お前にいじめられる原因があるんじゃないのか」
と言い出す始末だった。
中学を卒業後、うわさで知ったことだが、
その頃すでに好恵達は援助交際をやっており、
その担任教師も好恵達と関係していたらしいのだ。
好恵に弱みを握られている担任が、
彼女達に対して、強い態度ができないのも当然だった。
亜希子は夜、ひとりで泣くようになった。
『自殺』という言葉さえ頭に浮かんだ。
でもその一方で、
どうして私がこんなことのために
死ななければならないのか、
という理不尽さに怒りを覚え、
それを頭から振り払った。
しかし問題を解決する方法が
見つからないこという現実は消せなかった。
その事実に亜希子は怯え、震えた。
そして動悸が激しくなり、手が震え、
身動きができないほど
全身が痺れたように
動けなくなる発作に見舞われるようになった。
パニック症候群シンドロームである。
パニック症候群とはパニック障害とも言われており、
めまい、動悸、呼吸が苦しくなる、
手足がしびれる、吐き気や呼吸困難、
このまま死ぬのではないか、
狂ってしまうのではないか、
という恐怖に襲われる症状が
突然起こる病気のことで、
原因は強烈な精神的ショックとも
いわれている近代病である。
亜希子はいじめにあって
この病気に悩まされることになったのだ。
あれから四年経った今でも症状は治まらなかった。
亜希子はリモコンを操作し、
テレビのスイッチをオフにした。
動悸はますます激しくなっていく。
震える手でバッグからタブレットケースを取り出し、
ふたを開け軽く振る。
白く小さな錠剤が一錠、手のひらに転がった。
それを口に含み、ミネラルウオーターをコップに注ぐと、
一気に飲み下す。
それは精神科医に処方された精神安定剤だった。
この薬がなければ、
亜希子は一切の行動ができなくなってしまうのだ。
しばらくすると動悸は治まってきた。
深呼吸をして、ゆっくりと呼吸を整える。
腕時計を見ると7時半をすでに回っている。
亜希子はバッグを肩に担ぐと玄関へ急いだ。
あわただしく靴を履き外に出る。
ドアの鍵をかけてエレベーターへ向かいながらも、
菅野好恵の事故のことが頭の中をよぎる。
本当に事故なのか―――?
そういう疑問が湧く理由が亜希子にはあった。
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