ユングの娘 偽装の心理14
偽装の心理14
「———ったく、何なんですか、あの親たちは。
子供をまるで自分の所有物か、それとも
(家畜という言葉が脳裏に閃いたが、
河合聡史は慌ててその言葉を呑みこんだ)・・・。
とにかくまともじゃないですよ、彼らは」
タクシーが拾える幹線道路に出ると、
それまで胸につかえていた濁った心象を、
吐き出すように河合は言った。
「同感だ。オレも多くの犯罪者と関わってきたが、
あの夫婦は法に触れていないだけで、
奴らと何も変わりはしない。
究極といってもいい自己中心的な考え方の持ち主だ」
鳴海の声は乾いていた。
それが怒りから来るものからなのか、
それとも侮蔑の感情から来ているものなのかはわからない。
鳴海の言葉が言い終わらないうちに、
傍らに立っている氷山遊が口を開いた。
「自己中心的な人間は、ごく普通にいるわ。
その点では彼らはマジョリティな存在と言ってもいいわ。
自己中心的思考というのは、
いわば自我を保つことにあるのだから」
「自我を保つ?」
鳴海徹也は氷山遊に向き直って、問う。
「自我とは自分の存在、意義を自覚しているもの。
いわばアイデンテティね。それを守ることが、
えてして他人にはエゴイストに見られることもある。
でもその振る舞いは、人間ならば大なり小なり、
皆持ってるものなのよ。
その自我を守る振る舞いが、人間関係において
深刻な問題を引き起こすことは、ごく稀でもあるの。
むしろもし、自我が崩壊するようなことがあれば、
重度の人格障害や統合失調症などの
精神的疾患に見舞われることも珍しくないの。
だから彼らは自身の自我を守るために、自己主張をする。
それは彼らが無意識に行っている防御反応に過ぎないわ。
それを責めるのは、私から言わせれば、
皆、聖人君子たれと言っているようなものよ。問題はそこじゃないの」
氷山遊の声のトーンが、周りの気温を数度下げたように鳴海は感じた。
「問題はそこじゃないって、どういう意味だ?」
「彼らはおそらく、道徳的知的障害者なんだと思う」
「道徳的・・・知的障害者?」
鳴海は耳慣れないその言葉を、オウム返しに訊き返していた。
隣りに居る河合聡史も、
ユングの娘の次の言葉を待っている様子だった。
「人間の誰しもが持っている、憎しみ、恨み、妬み、嫉み、
それに自分だけが得をしようとする邪悪性を、
隠避もしくは正当化している人格———
それが道徳的知的障害者の定義」」
氷山遊は鳴海を見つめて言った。
だが、鳴海には彼女の説明がいまひとつ飲み込めないでいた。
それを察したのか、彼女は再び口を開いた。
「これはアメリカの精神科医スコット・ベック氏が唱えた理論なの。
彼は社会関係学と心理医学で博士号を取得した優秀な精神科医で、
数多くの精神疾患者と関わり、
様々な心理療法を試した人物でもあるの。
その過程で、彼は人間の深層心理———
無意識下における邪悪性に注目し、研究を始めた。
邪悪性は誰もが持っていて当たり前の心理なんだけど、
通常は社会規範や良心というもので、制御しているものよ。
でも、道徳的知的障害者とされる人格は、
その邪悪性に気づかないか、もしくは気づいていたとしても、
自己を正当化するの。
普通の人間は自分の言動や行動が、
他人の心情に致命的ダメージを与えることに臆するものだけど、
彼らはその振る舞いを平気でやってのける。
むしろ、極めて自己中心的な邪悪性を含んだ振る舞いを、
相手を思いやってるとか、相手のためだとかいう表現に置き変えて、
自己を正当化してるのよ。
深層意識にある邪悪性を自他ともに欺瞞的に修正してる人格が、
道徳的知的障害者と呼ばれてるの」
氷山遊の口調は淡々としていて、
大学での講義風景を鳴海たちに連想させた。
「つまり、彼らは自分たちに、
何の非も無いと本気で信じてるのか?」
鳴海の問いに、氷山遊は無言でうなづいた。
「そんな特別な人間が、世の中にはいるんですね」
河合聡史は、苦虫を噛み締めたような顔でうめいた。
「彼らは特別なんかじゃないわ」
彼女の言葉に、鳴海と河合は互いに視線を交差した。
「邪悪性は誰の深層心理にも潜んでいる。
ただそれを自我が制御しているだけよ。
自我は生まれたときから三十代後半にかけて形成されるの。
まずは第一次性徴を経て第二次性徴・・・いわば思春期ね。
それまでに自分の性別やあり方について人格を形成していく。
その中でアイデンテティや価値観を見出していくの。
たとえば男性であるならば、男の子から男性への人格を形成していく。
でも男性も女性人格を持ってる。それをアニマというわ。
女性の場合の男性人格はアニムス。
そのアニマ、アニムスや、自分の育った環境の中で、
自分のあるべき姿を意識したものを、
学習して深層心理に押しやっていくイメージね。
だから深層心理には様々な意識があって、
本人にも知り得ていないものは膨大にあると推察されるわ。
その深層心理に眠っていたものの一つである邪悪性が、
何のきっかけで意識上に出てくるかは予想がつかない。
私たちの周りでも、無意識に人に対して、
深刻なダメージを与えるような振る舞いをしている人は珍しくないわ。
鳴海さんや河合君、それに私自身だって例外じゃない。
誰にだって起こりうるものなの。
ただ衣澤夫妻のように、あそこまで露骨なタイプには
私もほとんど会ったことないけど」
氷山遊はそこで微かな苦笑を浮かべた。
無意識に発せられる邪悪性———。
鳴海はその言葉を心の中で、何度も反芻した。
数年前に別れた妻と娘のことが、何の前触れもなく頭の中をよぎった。
彼女たちは警察官である自分に対して、様々な不満を口にした。
一緒に食事を摂ることなど年に数度しかないとか、
休日に家族で出かけることも無いとか、
娘の誕生日でさえ、まともに祝ってないだとか・・・。
自分はそれらに対して、実に無頓着だった。
凶悪犯人を逮捕することの方が、
自分にとって至上の使命だと考えていたからだ。
だが、妻や娘からすれば、そんなことより
良き夫であり良き父親であることの方を望んでいたのだ。
そして喧嘩になるたびに、
自分は妻や娘に何と言ったのだろうか?思い出せない。
もしかしたら、氷山遊の言うような、
相手の心に致命的なことを言い放ったのかもしれないが、
思い出せない。
鳴海は焦りにも似た気持ちで、
記憶の中をまさぐっていた。
「鳴海さん」
不意に河合聡史の声がして、鳴海は我に返った。
いつのまにかタクシーが目前に停まっている。
河合はその助手席へ、氷山遊は後部座席に乗り込んでいるところだった。
鳴海も妙にぎこちない動きで、氷山遊の隣りに腰を降ろした。
「心ここにあらずって感じですね。何か心配事でもあるのかしら」
ギクリとした鳴海は、氷山遊の横顔を反射的に見た。
その直後、彼は後悔した。
今の行為は、彼女の言っていることを肯定したにも
等しいと思ったからだ。
だが、氷山遊はそれ以上の言葉は継ぐことはなく、
コートのポケットからマカデミアナッツチョコの包みを取り出すと、
銀紙を剥がして口に放り込んだ。
相変わらずの無関心とさえいえる無表情だ。
「博多全日空ホテルへ」
鳴海は自身の動揺を誤魔化すかのように、
落ち着いた声音を意識して、タクシー運転手に言った。
タクシーは国道607号線を西へ向かった———。
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