おかしさの違い
周りからはおかしい、変わっていると言われることでも、自分からしたらおかしくない場合がある。
そのまた逆も然り。
これは、一言で言えば、世間的な感覚でおかしいのか、社会的な合理性でおかしいのか、の差な気がしている。
日常会話の多くの場合、世間的な感覚で「おかしい」と使う。
特に、世間的におかしいと使う場合は、自分に向けられたものではなく、誰か他の人に向けられる場合に、「おかしい」と使う。
しかしそれは、世の中の総意としての非難ではなく、個人的な人生経験上、つまり統計分母1の感覚であり、非常に偏った意見であるにも関わらず、それに気づかずに、みんなそう思っているが如く「おかしい」と主張する。
この場合、自分に何か責任が向けられているか、自分に落ち度を感じている時に、周りのせいにしたい、責任の所在を変えたい(うやもやにしたい)場合に、「おかしい」と使うし、特に、枕詞的に、「普通は」「一般的には」「常識的に」などを前につけて主張する。
無意識に「普通は」「一般的には」「常識的に」と使う人は、その時点で“自分がおかしい“という可能性を一切疑っていないので、俯瞰値レベルが伺い知れる。つまり、無知の知の姿勢が一切ない為、軽く論破できてしまうだろうが、論破自体は目的ではない。
アインシュタインは、下記のような名言を残しているが、
Common sense is the collection of prejudices acquired by age eighteen.
(常識とは、18歳までに身につけた偏見のコレクションのことを言う。)
これは、常に自分の持っている視点、経験を問い直す重要性を語っていると思う。
自分の視点も問い直しつつ、その物事自体のどこに、どのような問題があったのかを分析する、これが社会的な合理性のおかしさを見つける視点だと思う。
社会的合理性だけが重要だと思っているわけではなく、
人情、義理、粋など、合理性では通らない価値のあるものも世の中には沢山あるし、そちらの方が価値がある場合も多々ある。
しかし、建設的な議論、解決策の話の場合は、合理性を欠いてしまっては話が進まないし、それこそ“おかしい“話になる。
本来、この議論の土台を整えたいところだが、整わない。なぜなら、世間側の常識だけを持つものは、この話が理解できないし、理解したら、自分の言っていることが“おかしい“ということに気づいてしまい、バツが悪いからである。
個人的にはこのような無知で、無理解な大人を糾弾したくなってしまうが、それもきっと本質的な解決には至らないので、お互いに“おかしい“とならないので、そっと距離を取ることが重要なのかもしれない。
これも根本的な解決ではないが、無理に共生しようとする方が、不自然な気もするので。