価値の向きを変える
江戸時代で好きな話として、世界の国の都市部と比べて日本の道が綺麗だったという話。
これは、現代的な活動として、清掃意識が高かったとか、ボランティアがいたという話ではない。
排泄物の価値が高いものだと認識されていたから、排泄物が欲しかった。
道に捨てられるぐらいなら欲しい。
じゃあ、公衆便所を作って回収しちゃおうとなった。
そしてそれがかなり儲かった。
だから人通りの多い道には、公衆便所が多く作られた。
結果、道には糞尿が落ちていないという結果になった。
これから学べることは、価値の向きが変わることで、
結果的に他の価値も高まったということである。
そもそも、排泄物に価値があることは百姓たちは知っていた。
ただそれらを知らない人たちのものまで集めるという発想はなかった。
しかし、排泄物は人口に比例しているので都市部に多い。
大きな道でもあれば使う。
無価値(むしろマイナス)のものが、場所や人にとっては価値がある。
その間を取り持つと、誰も傷付かずWin-Winな、むしろ三方よしの社会ができる。
ゴミを拾うボランティアの方々は素晴らしいし、続けてほしい。
そして、ゴミを捨てる人は減って欲しい。
ただ、ゴミをゴミとして扱って、ゴミのまま終わらせてしまうと、
そのマイナスは結果として残ってしまう。
ゴミをゴミとして扱うのではなく、他の価値のある“もの“として認識を変えることはできないだろうか。
また、製造側は、最後に残るものが“ゴミ“ではない価値のあるものとして残せないか。
誰かにとってはゴミのものが、誰かにとってはゴミではない形で価値にできないか。
メルカリは個々の“いらないもの“を誰かの“いるもの“にできるという媒体として素晴らしく市民権を得た。これも価値の方向を変えたビジネスの良い例だ。
価値のあるものを少し価値をあげることも重要だが、
あらゆる面で臨界点を迎えようとしている世界においては、
今ある価値の方向を変えていくことが必要である。
逆の例といえば、肉に関して。
今や肉が価値が低いと思っている人は少ないだろうが、
本当にそこまで肉に価値があるだろうか。
少量で食べる肉のが、大量の肉より価値があると思えないだろうか。
価値の方向を変えることで、世界はもっと面白くなる。
自分の持つ原体験で世界を問いなおし、価値の方向を変えられる人が増えると良いなと思う。