自分探しではなく、「自分なくし」

みうらじゅん氏が使用していて、
非常に良い表現だなと感じた「自分なくし」
このイメージをまとめておこうと思う。

まず、自分探しをしようと思って、
“自分らしさ“を求めると、“自分“を持とうとして、周りの変化に合わせないようにすることで、逆に変化に敏感になり、他者との違いが気になるようになる。

一方で、「自分なくし」は、文字通り、“自分らしさ“を求めていない。
つまり、自分に固執しない為、変化に合わせながらかつ、他者と比較しなくなる。

その他者との比較を必要としない自分が、ありのままという状態である。
つまり、自分らしくと、ありのままは似て非なる真逆のことである。

自分を深く理解するとは、過去、親、他者と比較した時の自分ではなく、自分を無くす事で、自分のゼロ地点(ありのまま)を理解する事である。

自分探しの胡散臭さは、都合の良い自分を見つける行為だからである。
都合の良い自分を見つけたいという欲望を"あきらめて"、何もない空っぽな自分を受け入れる(あきらめるとは、元々は仏教用語であり、欲望以外で形成される自分を明らかにすること)。
すると、自分は、自分以外のものによって作られているということを深く理解できる。
それは、社会的にも、化学的にも。

本当の意味で、自分探し(自分を理解する)というのは、
自分らしさの発見、形成ではなく、自分を無くしていった先に、自分の空っぽさ(自己の不可能性)と身の回りの構造(世界の複雑性)を実感することを目的とした概念なんだろう。

タモリさんは、この「自分なくし」を、“実存のゼロ“と表現した。
これも非常に分かりやすい概念である。
また、モラトリアム期に“実存のゼロ“を経験(実感)したことがあるかどうかが、その後の人生を決めると言っており、非常に同感である。

モラトリアム期に“実存のゼロ“を実感していると、姿勢として、
自分の見えている世界に対して、謙虚さと尊敬が生まれ、かつ、主体性も生まれる。
世界は常に変化しており、自分の中に正解はないと思えている人からは、このような姿勢が滲み出る。
すると、中高年にあるあるの、自分の固定概念を下の世代に押し付けるということがなくなる。
このような大人を増やさない為にも、逆を言えば、“実存のゼロ“を深く実感する為にも、フォルケホイスコーレの教育が注目を集めているのだろう。

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