産業資本に入れないべきものとは
産業資本とは、1年間経っても残り、未来に利益を生み出す資本である。
その資本を多く持てば持つ程、資本家、企業は拡大していく。
都市部の社会構造として、ほとんどのものが産業資本の上で成り立っている。
余すことなく産業資本の上に乗せることが効率性(生産性)の高い街であり、それをしないのは、バカ扱いされるのが都市部のビジネスだろう。
一方で、地方は、土地や建物の所有権はあったとしても管理しきれないという点から産業資本には乗らずに、共有資産みたいな部分が多い。それによって、資本を持たないものでも多くのリソースを共有の中で得ることができる。
どちらが良いかどうかポイントによって違うのでそこをまとめてみる。
都市部のほとんどが産業資本に乗っていることでのメリット、デメリット。
メリット
・産業資本から生まれる余剰(利益)によって、自然淘汰によって消えていた命を包摂できるようになってきている。
・産業資本を通さなければ出会えなかった人や経験をできるようになっている。
デメリット
・生活、労働のほとんどが産業資本に乗っており、産業資本にならないものを無価値と判断しやすい。
・生活、労働のほとんどが産業資本に乗っていることにより、資本を持たない者が悪循環から抜け出せない。(格差が広がっていく)
・産業資本を持つものは、産業資本によって全てを行うことができるので、自分の経験値は全く上がらない為、生きる実感、自信を得にくい。つまり、とても便利だが、つまらない人生となる可能性が高い。
このような中で、社会の包摂性を担保しながら、経験の機会均等を維持しながら、産業資本に依存しない生き方はできないだろうか。
特に、生きるために必要な農業、教育、福祉など、インフラ(セーフティネット)に近いものほど産業資本に乗せ過ぎては格差が広がり危険だが、そのせいで産業資本の余剰が生まれないことで包摂しきれていないという状況がある。
この解決策としては、産業資本を持つものが包摂する姿勢を持ち続けられる構造が重要になてくる。つまり、本質的なエリートが産業資本を持ち、社会を作っていく必要がある。
そのようなエリートを育てる為には、産業資本以上に大切な価値が産業資本外にあることを知っていることが重要になってくると思う。なぜなら、産業資本の価値しか知らなければ、産業資本至上主義的(ネオリベ的)になってしまうし、そうなってしまえば、包摂性の意義が薄れてしまう。
また、災害後の日常に、幸福を感じる(幸福度が上がる)というのは、災害によって、産業資本外の価値を享受しやすい感情があるからではないだろうか。
だからと言って、自給自足を勘違いしている人のような産業資本外で生きようということでもない。産業資本による社会と、産業資本外による社会を行き来する中に、エリート教育の本質があるのかもしれない。
そして産業資本によって、自分の能力を外部化しているが、
そもそも自分は外部のものによって出来ているという視点(動的平衡)を持つことができれば、外部も含めて自己と捉え、利己と利他を限りなく同義として扱うことができるのではないか。
そのような捉え方ができるエリートをどうしたら増やせるだろうか。
非常に面白い問いである。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?