有機と無機の間
有機過ぎると、腐敗臭がする。
無機過ぎると、何も感じない。
これは多くのメタファーである。
最近は希薄になっているだろうが、地方の繋がりは非常に有機的である。
農業をしっかりとやっている、の基準は、農地の周りの草刈りがしっかりと成されているか。無機的な社会ルールからしたら、誰にも迷惑をかけていないのであれば、いつ草刈りをしても問題ないだろう。
しかし、地方における草刈りはそのような意味合いではない。
それまでの慣習や伝統、景観などを無意識的にインストールされている地元民からすると、草刈りの度合いによって、その“土地への愛みたいなもの“を測っている。
この“土地への愛みたいなもの“というのは、言語化が難しい。
だからこそ、有機的なものである。
確実にそこに存在し、確実にある一定の人々には共通認識があるが、それを法律やSNSなどで学んだ知識で理解しようとしても理解はできない。
それを理解するためには、その有機的なものの中に入るしかない。
地方活性や地方創生の文脈で語られる場合、この有機的な部分を、無機的に解説し、分かった気になるケースがすごく多いように思う。
都市部の人たちにこちらの想いを伝える場合も、近しいようなことを感じる。
研修の中で、有機的な価値観や感性が体感を通じて伝わったとしても、
「都市部に戻ったら、忘れてしまうから、何か持ち帰ることができるのものはあるか?」
という話になる。
ただ、これは言い換えれば、有機的なものを分解して、無機的な状態にしないと都市部では価値として認められないということだろうし、企業などであれば、報告も必要だろうからその通りだと思うが、それでは、本来の本質が伝わらない。
人間は水やタンパク質の塊であるが、水やタンパク質を深く知ったところで、人間は分からない。私たちが、人間という有機的な存在を理解するためには、人間を人間として理解する必要がある。
ただ、人間を人間としてだけ見ていても分からない。
人間以外と分けることで、分かることができる。
私たちは、有機性から無機性、無機性から有機性を感じる時に、両者の価値を実感することができる。
この社会が苦しい、オワコンだと思う人たちは、この行き来ができずに、どちらかにどっぷりハマりすぎている気がする。
都市部の人たちは、無機的な環境に慣れすぎ、仕事や生活に意義が感じられず、有機的な感覚をお金の繋がりに求めて、でも全く感じられないというループに入っている。
一方で、自給自足や自然派、陰謀論系の人たちは、有機性を理解してそうな振る舞いを見せながら、事実や科学的な視点という無機的な視点を見落としがちであり、分かりやすいストーリーに没入しやすい。
どちらも入り込めば入り込むほど、抜け出せない構造になっている。
だからこそ、どちらの感覚をバランスよく持ち続けるために、問い続ける姿勢が必要なのだと思う。