自分という家を建てるためには
日本の家は、多くの場合木造で作られる。
湿度や気温、風などの気候、資材としての利点などを含めて、木造が選ばれていて、それによって法隆寺のように1,400年以上も倒れずに残っている。
家を建てるためには、
乾いたしっかりとした木、
それぞれの木が組み合わさる設計、
必要な数の木などが挙げられる。
人間は木を多くの手段として使ってきた。
火をつける道具、武器としての道具、木の繊維から服など、
常に試行錯誤しながら木を利用してきた。
ただ、どの場合も、生木をすぐに使うことはほとんどない。
薪用に割って置いておくか、かわを剥いで置いておくか、カンナなどで加工するかなど、木を最大限活用するために、材にする。
これは、学びという分野でも同じことが言えるだろう。
インプットされたばかりの情報は、生木である。
インプットされた情報をどのように使うのか、どのように加工するのかという価値観(目的)によって、インプットされた情報がその人にとってどのように残るかが決まる。
教科書にある情報を暗記のようにインプットすることは、平面的で、量的な積み重ねになり、それぞれの情報の繋がりや因果関係が見えない。
一方で、問いや物事の繋がり(背景やストーリー)からのインプットは、立体的で、質的な統合を生み、メタ認知的に捉えることができる。
例を挙げるなら、教科書的なインプットは、切ってきた木をすぐにそのまま、積み上げていき、できるだけ倒れないように重ねていく作業である。これは、木が乾いておらず腐敗しやすく、木の特性や一つ一つのバランスが考えられていない為、積み上げてバランスを取るのが難しい。
問いやストーリーからのインプットは、そもそも何故木を積むのか、積んだ先にどうなるのか、そもそもどれくらいの木が必要で、何を目的に作っているのかという視点で積み上げていくので、最初の積み上げるスピードは遅いかもしれないが、結果として、意味のある、役に立つ建物が作れるのだと思う。
つまり、これは“忘れて残ったものが教養である“という内田百聞の話にもつながり、つまり、生木として切ってきた木を目的に沿って加工なりをして置いておき、忘れた頃に使えるような木になっている、とも解釈できる。
家は、土に還る必要はない。むしろできるだけ還らないほうがいい。
自分という家を建てるとしたら、“土に戻る“サスティナブルな家ではなく、できるだけ続く、どんな地震や台風にも法隆寺のような家を作りたい。
だとしたら、僕らは、
生木を切る→原体験、出会い
生木を加工して放置→自分なりの価値観で解釈して忘れる
材になったものを家として組み立てる→意志や目的に沿って行動する
その結果、新たな生木を切っていく→新たな出会いが生まれる
ということを繰り返すことで、完成のない自分という家(マイホーム)を立てていくことが、大人になっていくということなのかもしれない。
そして、そんな家で大切な家族や仲間と一緒に暮らしたい。
別に人の家でもいいのだけど。
組織やチームは、それぞれが持つ材を組み合わせた五重塔のようものなのかもしれない。
地震が起きてもみんなで一緒に揺れて、全体として回避する。
ただ、その回避する仕組みは、真ん中に一本強い軸があって、その軸が柔軟に揺れることで、地震の強い揺れを回避している。
組織で言えば、きっと真ん中の一本の軸は、ビジョンや意志の通った目的だと思う。
まとめるとすれば、個人も組織も、これまでの積み重ねによって今があるが、その積み重ねは、決して平面的、量的に積むのではなく、立体的に、質的に積んでいくことが、柔軟で強固な個や組織を作っていくのだろうと思う。
つまり、生木で置いておくのではなく、自分なりに使える材をたくさん持っておくことが、結果として自分という家を建てることに必要なのだろう。
思考の整理学からの対話で思ったことメモ