悲観的なあなたは、幸せですか?
先日、「結婚式の加害性」というパワーワードがTwitterを騒がせた。
上記の問題の発端とされるツイートを発したアカウントは現在非公開(後にアカウント消去)となっているため、ここでは引用しない。
「結婚式は誰かを傷つけるものであり、そのような覚悟を持って行うべきである」
といった意見に対し、様々な外野の意見が述べられている。
表現の自由における「幸せな描写も誰かを傷つける」みたいなものだなぁ、と何となく感じた。
この世の中には、様々なことが要因で、結婚をしたいと考えているにも関わらずそれが叶わない人がいる。
それは現状の法制度において、
性的マイノリティと呼ばれる人々にはいまだ難しいという問題もあれば、
別日にTwitterを賑わせていた、「20代男性のデート経験無しが4割」というニュースに載せられるような、異性と交際に至るのがひどく難しい人などが挙げられる。
「持つ者」と「持たざる者」の違いを明確に見せつけられる、
と考えた人が結婚式の加害性という過激なワードを担ぎ上げ、
ここまで大きな動きにしたのだろう。
ここで表題の問いが僕の中に生まれた。
僕は座右の銘の一つに「自分に同情するな」という言葉がある。
人が自分自身に同情すると、どんどん弱く、情けなくなっていく。
被害者意識を高めることは、協力してくれない他者やこの世界への批判に繋がり、歩みを止める。
絶望した社会の真ん中でたたずんでいても何も変わらない。
これは別のブログでも同様のことを話している。
「Twitterが狂人のメディア」と言われて久しいが、
今回の件は、「他人の幸せ」を受け取ったときに「自分の不幸せ」と比較する傲慢な考えが生んだネットミームだと思っている。
本来人間には「共感」という感覚があり、他人の幸せを受けて、
「今この人は幸せなんだろうな」と感じる。その気持ちが伝播する空間があるのだと思う。
今回、「結婚式の加害性」という言葉が独り歩きした要因は、
他人の幸せを受けて共感を得られない、あまりに独善的で浅はかな思考だったからではないかと考えている。
これはあまりに可哀想。
人の幸せを祝えない、という狭義のものではなく、
外界で生じる幸せな刺激を自分の内面で負の感情に変えてしまう、
それによって自分を守ろうとしているのなら、ある種哀れだとさえ思う。
最近は日本社会で初めて
「物事が正しくなかったり、他人を困らせることがあったとしても、何よりも我慢しないことが素晴らしい、善である」
といった考えが噴出している社会になってしまってはいるが、
あまりに独善的な考えが目立つ。
これを解消するためにどうしたらよいか。
自分の非を認め、徹底的に反省をする
そして、改善するためのマインドを整える。
言うは易く行うは難し、であるが、結局のところこれしかないのだろう。
戦争、物価上昇、アフターコロナ、異常気象、、
マクロ的に見ても、この時代を生きるのはかなり厳しく辛いものがあるけれど、何かを変えようせずに何かのせいにするのは、赤ん坊のすることだ。
自分一人で変えられる自分の心から、まず変えてみたら、と思う。
あと一つ。
「結婚式の加害性」という過激な言葉を使うのは、狂人だらけのSNSと非常に相性が悪いからやめた方がいいかな、と思う。
当たり前のように家のドアをグーパンで破って物申す人たちが多すぎる今のTwitterでは、まともな議論は難しい。
僕だって言葉にはかなり気を付けているつもりだ。
だからもし、嫌だなと思うことがあったり、ここは間違えているよ、ということがあれば教えてほしい。
僕は傷つけたくない人が傷ついてしまうところは見たくない。
その代わり、ある特定の対象を傷つけようとして文章を書くこともある。
僕なりの表現の自由ってところかな。