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改めて自己紹介してみる(前編) 結構緊張しますね~ No.501
昨日で毎日noteも一区切りの500日になりました。1年ちょっと書いてみて少し進歩したことや環境の変化などもあったので改めて自己紹介を書いてみたいと思います。
1.現在の仕事
二代目社長の伴走者
井上 剛典
二代目社長の伴走者として自分の経験をもとに、より良い会社づくりを目指す二代目社長のサポートを行っています。
飲食や自然食品の店、アパレルや健康食品の通販などいくつかの業種を立ち上げた経験から創業社長の大変さも理解しながら、二代目としてのレールを走る経営者のサポートが一番お役にたてる場所だと考えています。
もちろんクライアントには創業者の方もいらっしゃいますが、創業者の方は想いも強く自分で動く強さもお持ちですので、伴走者というよりは同志としてサポートさせていただいています。
それよりも以前の私がそうだったように、「この道を進むべきなのだろうか」とか「先代との話がうまくいかない」などの後継者特有の悩みに伴走するのが一番適任だと考えます。
また、まわりの方のQOL(Quality of life=人生の質)の向上に役に立てることも生きがいとして取り組んでいます。このnoteもそんな思いで書かせていただいています。
本当の自分に向き合い、自分がやりたいと思う事に真剣に取り組むことが人生の質を上げると信じています。
そんなサポートをする事も私の使命として取り組んでいます。
そんな私がなぜそういった思いに至ったかを経歴を含め(書き出したら長くなりました……)書かせていただきます。
2.井上 剛典 プロフィール 前編
①幼少期~
1973年岐阜市生まれ
アパレルメーカーの次男として生まれボンボンとして何不自由ない幼少期を過ごす。両親ともに会社をやっていて忙しくしていましたが、家には祖母と家政婦さんがいつもいるのでおばあちゃん子でした。
おばあちゃんは基本的に料理をしない人でしたが、唯一創るのが「味噌雑炊」で何か作っていると必ずこれでしたが、今も味を思い出す思い出の味です。
「おこづかいちょうだい」というといつもお小遣いがもらえて(金額は想像に任せます)放任な両親の元、本当に自由に過ごしていました。
②中学受験~
人より成長が早く、小学6年生で身長が170cmあり、運動も勉強も人よりは出来た。これは単純に早熟だっただけだと今は思います。
勉強も特にガリガリやるわけではないのですが、早熟なおかげで成績もよく名古屋の東海中学という進学校に入学します。
そこが私の人生の最初のピークだったと今でも思いますが、「末は博士か大臣か」とちやほやされて育ったのですが、中学に入学し自分より頭が良く、背が高く、運動もできる人間が「ゴロゴロ」いる事にショックを受けたのが挫折の始まりでした。
それまでは勉強は勉強しなくても出来るものだと思っていましたので勉強のやり方もわからず、成績は右肩下がりで落ちていきます。それに相まって名古屋の都会の遊びが刺激的で遊び歩くようになり、気が付けば卒業時には自分の下に二人しかいないという奇跡的な成績で卒業しました。
③浪人時代~
もちろんそんな成績で行ける大学もなく東進ハイスクールという予備校に行くために東京まで出て浪人をするのですが、当時はパチンコにどっぷりで予備校も出席だけ取ってパチンコばかりしていました。
もちろん一浪時も志望校に受かるはずもなく、行く先を考えたのですが、このままでは二浪しても結果は同じなのが見えていたので親のアドバイス通りに逃げるようにしてオーストラリアに留学します。
④オーストラリア留学~
クイーンズランド州の州都ブリスベンに行き、最初の9カ月がELICOSという英語学校に、その後ファウンデーションプログラムという大学準備コースに行くのですが、ここでも当然のごとくサボり癖発動します。
最初の1年はホームステイをしていたという事もあり、まじめに英語を勉強していたので、それなりにしゃべれるようになってきました。
そこからシェアハウスに移り、ファウンデーションに行くのですが、一人暮らしで車もあり、気候の良いオーストラリアという事で勉強する気が起きません。というか相変わらず勉強のやり方がわかりません。
不幸中の幸いは、私の住んでいたブリスベンには当時カジノが無く、カジノに行くには片道80kmのゴールドコーストコーストまで行く必要があった事でしょうか。
それでも何度か一日にゴールドコースト2往復とかしていました……
(1日のATMの限度額が$500で今日は$500しかやらないと決めているのに、到着して5分で負けて家までお金を取りに帰るというパターンです)
今はブリスベンにもカジノがありますが、もし当時カジノがあったら強制送還されていたかもしれません。(遠い目)
そんな生活ですので1年で終わるはずのファウンデーションプログラムも1年半たっても卒業できず、大学を諦めTAFE(日本で言う専門学校)に入学を決めます。
⑤日本食の店「美味」開店
相変わらずふらふらとしている私を見かねたのか、親からアドバイスが入ります。
「何かお店とか事業とか始めたら?」
父親社長、母親社長、じいちゃん会長、ばあちゃん相談役という経営者一家でしたので何の違和感もなく
「やってみるわ」
と返事をし、当時母親が始めた留学の斡旋を手伝うという選択肢もありましたが、一番興味のあった料理で仕事が出来ないかと準備を始めました。
探せば見つかるもので、ブリスベン市内のショッピングセンターが改装に入るまでという条件で、フードコートに格安の物件があるという話が耳に入ります。
なら始めようかと、
・日本から調達するもの
・人はどうする
・メニューは
・レシピは
とかまあホント色々な事を今では信じられないくらい「テキトー」に準備して始めました。
結局2年弱でそのショッピングセンターが改装に入り、改装後は家賃が4倍になるという事で継続を断念したのですが、保健所の登録をしただけで後は開業の申請や税務申告などもしないまま終わりました。
まあこのあたりで「テキトー」でもなんとかなると変な自信を持ちだしたのかもしれません。
ちなみに妻とはこの時代に出会いお店を手伝ってもらうころから始まり、今も一緒にいます。
その後も存分にオーストラリアライフを満喫し友人の力を借り、かろうじてTAFEを卒業し帰国します。
⑥帰国後のリハビリ
帰国後はオーストラリア生活のゆるみを取り除くためにしばらくリハビリをしていました。
なんせのんびりした国で、渋滞もなく時間もあまり気にしないところでしたので日本の生活に復帰できるはずもなく、何をしようかと毎日ふらふらしていました。
今思えばこのころから自分探しという名の「おさぼり期間」を定期的に取っていたようです。
⑦自然食品の店「アニューオーガニックファーム」開店
ふらふらとはしながら、何かしないといけないという焦りや気持ちはあり、やる事を探していました。
やはり飲食に興味があったのですが、ただ飲食をやってもという気持ちもありどうせやるなら人のためになる物をという想いで自然食品の店をやる事を決めます。
当時読んだ本で感銘を受けたのが「ニンジンから宇宙へ」という本で、頭の中は「オーガニック」しかないという想いで進んでいきます。
とは言え1998年当時はまだ「オーガニック」という言葉もそれほどメジャーでなく、自然食品の店と言えば血色の悪いおじちゃんかおばちゃんがやってる怪しい店ばかりというイメージでした。
そんな中フランチャイズで「アニュー」という自然食品の店を展開しているナチュラルグループという会社に惹かれ、ご縁もありフランチャイズとして岐阜市加納に「アニューオーガニックファーム」を開店しました。
そこそこの売上は上がるのですが、自分の甘さもありあまり利益も上がらない状況が6年ほど続き撤退を決めました。
撤退とは言え、店としては成り立っていたのでフランチャイズ元に直営店舗として買い取ってもらい一区切りとなりました。
「時代がまだ追い付いていなかった」という二代目社長が言いそうな言い訳を残してまた自分探しに旅立ちました。
なんか書き出したら止まらないのでプロフィール前半は一旦このあたりにさせていただき、明日に続けます。
今日の一言
いつまでやってる自分探し?
覚悟が決まらないうちは何をやってもダメなので覚悟を決めるのが先
こんな仕事もしています。
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