ソウルⅡ 母の国
日本の大学に進学し、現在その大学院に通いながら働いている娘が、明後日6年ぶりにこちらの家に戻ってきます。
こういう時にこそ、もう一度。
母とは何か。 母とはどうあるべきか。
そんなことを想いつつ、2年前に書いたエッセイをここに綴っておきます。
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一月中旬、東南アジア3か国の訪問を終え、仁川空港に戻った時だった。
「今日のソウルは、体感温度がマイナス25度だ。」という。
わからない。
どう想像しても、南国帰りにとっては理解できない数字である。
今ではソウルは、訪れるごとに違う顔を見せてくれる愛おしい場所になっている。できればその時、その「極寒」をじっくり味わいたいと思ったが、タイミング的に何やら無謀なことのようだ。
後ろ髪を引かれながら、周りの人たちの忠告を素直に受け入れ、仁川空港から大邱空港に向かうことになる。
「当時、こんな極寒の中でのパンジャチブ(バラック小屋)の生活とは、いったい・・・。」
暑いぐらいの飛行機の中で、一人想像する。
板一枚の小さな小屋の中、暖かくすることができるのは人肌だけ。
母が子を抱く、父も子を抱く。
生物学的に人間は、極度の寒さにどこまで耐えられるのだろうか。
「次回は必ず、タルドンネにいく。」(タルドンネ:月に手が届きそうなぐらい高い位置に立つ貧民街)と決めていた私にとって、寒さが緩和された2月の空気は、とても柔らかくやさしかった。
ソウル駅から、地下鉄で恵化(へ—ファ)駅に行く。恵化駅は以前、当時高校生の娘と演劇を見に来たところだ。
大邱からソウルに来てこの町を見た瞬間、心躍らせ喜ぶ娘の横顔が思い出される。
「この駅から歩いて、梨花(イファ)洞のタルドンネに行けるとは。」
梨花洞の入り口である大学路では、若者たちが「演劇」という手段を使って、常に新しいものを創造し発信している。
躍動感あふれる学生の街は、建物からも主体的な意欲が感じられる。
その街を通り過ぎながら、一本奥の坂道を歩いて行く。するとそこには、今までとは全く違う「空気」があった。
この違いに驚き、思わず後方を何度も振り返って見てしまう。
丘の上の梨花洞は、大人たちを中心に「再開発」という手段を使い、芸術家などの力を借りてリフォームし、タルドンネとは全く違う新しい姿を発信している。
周囲の建物からは違和感と共に、受動的な意欲が感じられ、かすかな希望となっていた。
まるで、一瞬にして、時空間を移動したかのようだ。
並行宇宙とは、こんな感じなのだろうか。
冬の淡い木漏れ日の中、私はこの異次元的時空間にすっかり魅了され、その空気に酔いながら、じっくりと浸りつつ、一歩そしてまた一歩、ゆっくりと歩いて行った。
向こうの山の中腹には、観光客らしい人たちが数名いた。
同時に、日本語も聞こえてくる。ここはガイドブックにも載る、観光地らしい。
近代化の陰というべきタルドンネが、世界からの観光客を受け入れる立派な観光地になった。
ここに訪れる観光客の中で、当時の歴史を知って訪れる人が何人いるのだろうか。
また、そんな観光客を眺める、ここの住民達は、この地域の変化をいったいどう感じているのだろうか。
いろいろなことを想いながら、人が集まるところに行ってみた。
そこには「良く生きよう記念館」と、力強く書いた朴正煕大統領の実筆の看板が、当時のこの地域の存在をしっかりと主張していた。
「良く生きよう記念館」
良く生きることができない時代だったからこそ、良く生きる・良く生きたいという、「い・き・る」に対する主体的な「意志」が、ここにはあった。
「生かされている」「生きることを許されている」という、宗教的な絶対的存在による相対的な人間としての「生きる」や・・・
思想・哲学による倫理・道徳的な「こう生きるべき」という、人間の「脳」によって規定された、消極的な人間の「生きる」ではなく・・・
目の前に立ち塞がる困難に対して、真正面から向き合い、それを克服しようと努力しながら積極的に切り開いていく「良く生きよう」とする、尊厳による主体的な「意志」!
この看板の名前一つに含まれている言葉の重みの中に、人間一人一人に内在する力強さを感じた。
ではいったい、現代人は「良く生きよう」という「意志」は、本当にあるのだろうか。
日本の1970年代には「無気力・無感動・無責任」という「3無主義」と呼ばれた若者が、1980年代にはそれに『無感心・無作法』が加わり「5無主義」と呼ばれ・・
今や「無抵抗」「無批判」「無能力」「無学力」「無教養」「無節操」「無定見」「無思想」が加わって「13無主義」と言われるような、時代になっているらしい。
韓国でもマスコミなどが、最近の若者たちを「N放世代」(NはナンバーのN、たくさんのことを放棄して生きる世代のこと)と呼んでいる。
確かに現代は当時と比較すると、物質的には恵まれ、何不自由なく生きていると言えるかもしれないが、心の奥深くから「良く生きている」と果たしていえるのだろうか。
いったい「良く生きている」「良く生きてない」の、基準とはなんだろう。
6・25戦争によってすべて失った当時の韓国国民には、戦争によって先立って逝った人の分まで「生きよう」と力強く思ったその「気力」と「責任」と、それに伴う「感動」が透き通った希望と共にあったのではないだろうか。
当時のように生きていることが奇跡で、些細なことに出会っても感動することができる「生きる」を、どれだけの現代人が今ここで感じ、この瞬間を生きているのだろうか。
観光地「梨花洞壁画マウル」として新しく生まれ変わったタルドンネは、まさしく40年足らずという奇跡的な短期間内で、高度経済成長を果たした大韓民国の進取的覇気をしっかりと見せてくれる、ソウルの一部である。
私の期待を決して裏切ることがない「ソウル」の街に、また感服させられる。
この「良く生きよう記念館」は1965年に当時大学3年生のマ・デボク氏が、不遇の環境に置かれた子供たちに過去の自分の姿を重ね、靴磨きなどをしながらお金を集め、学びの場を提供した青空教室の現場だった。
不安定な階段を、気を付けながら降りていく。
階段途中にあった、3色のガスメーターとペットボトルの蓋2つによってできた、3つの見張り番たちが、私を迎えてくれた。
まるでメーター部分の口から、今にもおしゃべり話が聞こえてきそうである。
ここのリフォームは、マ・デボク氏と共に、弘益(ホンイク)大学の産業デザイン学科の学生たちが引き受けた。
生命感のないところに、生命を吹きかける。
まさしく、芸術という創造の力である。
リフォーム(再生)は、それを手掛けた人の「意志」によって起こる、自由な発想の下での「遊び」が、人の心をとらえ、楽しくさせて、喜びを与えてくれる。
階段を下りきったところに、当時の写真と説明文があった。
当時の写真を、凝視する。ほんの50年前のタルドンネの姿が、そこにはあった。この写真の中には、タルドンネから見る当時のソウルがあった。
この写真の主体が存在する場所であるここも、「ソウル」なのだ。
特にその記念館で、一番目を引くのは「剃髪(ていはつ)の母、鞭を挙げる」と書いた詩と、その絵である。
どんどん大きくなる息子の姿によって
木の商売も楽しかったです
小豆粥の商売も楽しかったです
他人の家の家政婦も楽しかったです
髪を切って息子の一食を満たして
練炭の商売をして、洋銀の洗い桶で記念した あなた
それがあなたの幸福でした
韓服を着て、髪のない頭に布を巻き、右手に長い鞭を振るう母親。
その前でズボンの裾をまくりながら、ふくらはぎを母親に向け、首をすくめる11歳の息子。
この詩と、この絵の背景はこうだった。
テボク少年は6・25戦争によって小学校5年で中退し、毎日4km先にある山に登り木や炭を受け取って、更に8km歩いて売る生活が続いた。
多くの荷を背負って、毎日10km以上の山道を歩くことは、11才のテボク少年には辛い仕事だった。
そんな苦痛を忘れるために、兄さんがくれたタバコをテボク少年は隠れて吸い続けた。ある時、こっそり吸っていた煙草が、母にバレてしまう。
母 『まだ幼い私の息子、テボク!おまえが私の希望なのに!!』
テボク『学校も通えないのに、何の希望があるの?』
母 『(涙しながら)私が飢えて死んでも、テボクを学校に通わせるから・・』
母として育ち盛りの息子のために、あるものといったら少し伸びた髪だけである。その髪を切ってかつら屋に売ってまでしても、大切な息子の一食を満たしたいと思う母。
そんな希望そのものの息子が、未来を悲観し、タバコを吸って、生活の辛さを紛らわしている姿を見た時の、母の心はいかなるものだっただろうか。
そんな息子を見ながら、泣きながら鞭を手に取り、丸くかわいいふくらはぎに向けて、それを厳しく強く振り切らなければならなかった、その時の母の心は。
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拙い文章を読んで頂いて、ありがとうございました。 できればいつか、各国・各地域の地理を中心とした歴史をわかりやすく「絵本」に表現したい!と思ってます。皆さんのご支援は、絵本のステキな1ページとなるでしょう。ありがとうございます♡