7年経った。
あの頃、娘が東京の某Y大学の入学を4月に控えている時だった。
ちょうど7年前の今日、釜山にある日本領事館に行き、海雲台(ヘーウンデ)の冬柏島(トンベクソム)で海を見ていた時だったに違いない。この海の向こうにある「日本」での生活を頑張ってほしい・・などなど、娘と話していた。今思うとあの時の、穏やかな海の向こうで、そんなことが起きているなんて想像もつかなかった。
そろそろ帰ろうと、駅に向かった時である。一件目、韓国の友人から電話が掛かってきた。「日本で大きな地震が起きたらしいよ。それで日本は大変なことになってるみたい。家族とかは大丈夫なの?連絡した方がいいよ!」と言ったので、「まぁ~よくあるからね。大丈夫だよ、ありがとう!」と軽く受け止め、電話を切った。
しかしそれから数件、同じ内容の電話が続く。「あれ、おかしいぞ。今回の地震は、違うのかな?」
そしてちょうど、釜山駅に着いた時だった。駅構内にあるテレビに人が群がり、神妙な顔をしたり、声をあげたりしながらすべての人が見入っている。私たちも近づいて、テレビの画面を見た。そこにあったのは、黒い油のようなものがどんどん家を飲み込んでいく場面だった。「なにこれ???」
始めは何だかわからなかった。しかし徐々にテレビの声や、見ている人たちが親戚に電話して甥っ子を心配している声などが聞こえてきて、遂にわかった。あの場面は、東北地方の太平洋沖地震による津波の被害だった。目をうたがった。ありえない、こんなことがあるのか?!
そして帰宅途中の電車の中でも、東京にいる夫に電話する、反応なし。栃木の実家にいる父親に電話する、これも反応なし。横浜にいる弟にも電話する、やはり繋がらない。そして東京方面の知り合いや会社の人など、手あたり次第電話をして、何とか通じた人から話を聞くと、そちら方面は無事らしいということだった。
それからは、まず3月中旬に予定していた娘との沖縄旅行をキャンセルした。そして日本在住の外国人たちが、帰国便のキャンセル待ちで成田空港が膨れ上がっている報道を見て娘が、「お母さん、こういう時だからこそ、私は早めに日本に行きたい!」ということで、5日後ぐらいの飛行機に乗って東京に向かった。
ちなみにその時の飛行機の乗客は、娘ともう一人の男性のたった2人だけだったという。それとは反対に成田に着いたとたん、人だらけで驚いたらしい。
あれから7年。娘はその大学の大学院に通いながら、仕事もしている。私はこの間、日本のメンバーが韓国に来るなどして、怒涛のような日々を過ごした。そして最近、それぞれの立場でそれぞれが自立するようになった。私にとってはまるで、本番のための準備期間のような7年だった。
もしかして日本にとっても、ある意味スタートラインに立つ時が来たのではないだろうか。そんな日本を、世界も期待している。実はそれを肌で感じる。
個人主義から関係主義へ。
「絆」によって繋がる共同体のモデル国家として、全世界に発信する時がきたのではないだろうか。
がんばれ、にっぽん! これからが、本番だ!!