「疑問」との出会い
このエッセイは約2年前(アメリカのトランプ大統領が当選する2日前)に、自分自身の整理のために書いたものです。
マガジンにアップするために「ヌリ路」開発の秘話として、一応あげておきます。
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人生はどんな疑問や質問と出会うかによって、変わるようです。
私はここ一年半に出会った連続的な「疑問」によって、人生がまるっきり変わりました。それはそれらの「疑問」によって得た「答え」や明確な「方向性」が、私を居てもたってもいられなくしてしまったからです。その結果、その想いに掻き立てられながら、今もこうしてペンをとっています。
この一年半を振り返った時、これら「疑問」のきっかけは書籍や文章などでした。その衝撃的な「疑問」との出会いは、結果的に直接現地に行くという行動までも起こしました。
結局それは、直接訪れた「地域」との出会いであり、その地域が経験してきた「歴史」との出会いになりました。
今でもその感動による胸の鼓動は、止むことを知りません。
ではどんな「疑問」との出会いがあって、その疑問に対する感動的な「答え」や明確な「方向性」とは何だったのか、一緒に辿ってみませんか。
今から2年前ぐらいでしょうか。
韓国に移動してきた同僚から勧められた一つの手記から、すべては始まります。
それは韓国の大邱出身で、現在東京の練馬区在住のおばあちゃんのブログでした。彼女のプロフィールには、1928年日本統治時代に生まれ13歳に太平洋戦争を経験、17歳で終戦となり日本の統治から解放されても南北分断によって新たな悲劇に巻き込まれ、22歳には朝鮮戦争を経験し死の恐怖にさらされたと、綴られています。
激動の時代に生まれた一人の女性が、その時代の中で自ら選択したわけでもない共産主義者というレッテルを張られ、その枠の中に閉じ込められながら生きていかなければならない人生を拝見した時、観点の恐ろしさと共に、現在も休戦中であるこの半島の現実を見せつけられました。
20年間この韓国で生活してきた私にとって、一つの薄っぺらな知識レベルでの朝鮮戦争が、一人の女性の生きざまとして心に深く強く響いたのです。
特にその手記の中で、大邱から近い多富洞(タブドン)という地域で、北朝鮮の共産軍と韓国国軍始め国連軍が熾烈な戦いをしたという事実を知ったとき、「 多富洞 (タブドン)に行かなければ」と思いながらも、忙しさを理由に行動を起こすことはできませんでした。
それから約半年後、あるきっかけでソウルに行った時の戦争記念館での「疑問」が、遂に 多富洞(タブドン)まで足を運ばせることになりました。
そのソウル戦争記念館の展示の仕方は「今の韓国が存在しているのは、アメリカを始めとする国連軍のおかげである。」と訴えているように感じ、それを韓国の友人に尋ねても「そうなんじゃないの。」という答えを聞いた時、一つの疑問が心の奥深くから沸いてきました。
「本当にこれでいいの?この国を守ったのは、この韓国国民じゃないの?」
その疑問を解決させるためには、 多富洞(タブドン)に行くことしかないと思い、現地の博物館を探して、次の日同僚と一緒に行くことになったのです。(その時の細かい心の動きは、のち手記「韓国との出会い」に綴られることになりました。)
その疑問に対する答えは、やはり「今の韓国が存在しているのは、国を愛した国軍及び自ら犠牲になった韓国国民のおかげである。」と確信し、その後ポハンの学徒義勇軍戦勝記念館などを通しても、強く感じさせられることになりました。しかしその答えは、同時に新たな疑問を呼び起こしました。
「なぜ同じ種類の博物館にもかかわらず、こんなにまでも展示の仕方が違うの?」
それは外国人観光客が多いソウルという地域と、慶北地方の田舎である 多富洞 (タブドン)・倭館(ウェガン)・浦項(ポハン)という地域の違いにあるということが判りました。
確かにソウル戦争記念館は、白人系の外国人がたくさん訪れていました。きっと韓国に派遣されてきた、アメリカ軍の関係者や家族なのでしょう。
この時から、見えない主権の思惑を感じるようになりました。
自国の歴史をこう認識するようにという、多くの米軍基地を持つ主権としての意図でした。まさしく「創られた歴史観」です。
のちこのテーマは、韓国だけでなく日本においても無意識レベルで存在しているという事実を、一日も早く知り、それを解いていけたらと思うようになりました。
「歴史ってなに?」
そんな中でも一つだけ、希望を感じたことがありました。
それは浦項(ポハン)の学徒義勇軍戦勝記念館の帰りに寄った、九龍浦(クリョンポ)近代文化歴史通りの一枚の写真でした。
そしてその写真は、今は絶版となった一冊の本との出会いにもなりました。
「日本帝国時代より前の時代に、韓国に移り住んだ日本人の漁夫たちがいて、現地の人達と共に大漁を喜び合っていた。そんな事実があったのに、なぜそれほど伝われてないのだろう?そして、九龍浦(クリョンポ)の発展のために尽力した十河彌三郎さんの名前の碑だけは、地元の漁民がなぜ残したのだろう?」
まさしく国家レベルでの、主権の思惑を感じさせられました。
「この国が、反日を選択せざるを得ない理由とは何だろう?」
私はこれらの事実を通して、観点によって歴史が変わってしまうことを知りました。それはもしかしたら主権の思惑によって、歴史が利用されているのではないだろうかと思うようになったのです。この疑問との出会いによって、私は歴史の世界に完全に吸い込まれていくことになります。
「こういう世界観・歴史観の中で、私はどう生きるべきだろう?」
この疑問に対する答えは生活を通して、探していきたいと思っています。これは同時に、ここでの生活のすべての原点になっています。
地元農民と一つになって寿城池をつくった水崎林太郎さんや、韓国の山と民芸を愛した浅川巧さん、クリョンポの地域発展のために尽くした十河彌三郎さんなど、このような素敵な先輩たち以上に、国家民族を超えたアジア人・世界人として、この地に何かを残していきたいと、20数年前からぼんやり感じていたことがより明確にさせられました。
そしていつかそれが達成された時こそ、その疑問の答えが証明されると思っています。
そしてまたその頃に出会った、ハワイ在住の教授が日本の朝鮮統治について書かれた一冊の本を通して、私の中にも根深くあった自虐史観を発見し、そこからの解放に繋がりました。
「なぜ日本人は、ここまでも自虐史観が強いのだろう?」
そこにも、見えない主権の力を感じさせられました。自分の中にもある創られた観点の存在を知り、日本における学校教育やマスコミなどからの根深い影響力を感じたものです。この答えも、じっくりと解いていくことになりました。
またその後出会った、韓国近代文学の祖といわれている李光洙について書かれた本は、私を文学の世界に誘いつつ、日韓の歴史上にもこんな貴重な人物がいたことを教えてくれました。
その先生の存在によって時代における文学の役割と、その強い影響力を学び、すっかり私の師となり目標となりました。
「人類の最大の問題である観点の問題を、文学という角度からのアプローチは可能だろうか?」
この答えは、今でも模索中です。しかし少しずつ、表現可能になってきたように思われます。
同時にその時は、済州島の4.3公園や居昌郡の良民虐殺事件記念館、巨済島の朝鮮戦争捕虜収容所という、観点による生々しい熾烈な戦いの現場に直接足を運ぶことになりました。そして自由主義と共産主義という、二つの観点によって犠牲になっていった多くの人達に涙し、偲ぶことになりました。
おばあちゃんの手記で感じたことと、多富洞(タブドン)・倭館(ウェガン)・浦項(ポハン)地域で感じた同じ想いを抱きながら、観点の存在と、観点によっていかに人の尊厳が蹂躙されてきたのかを、目のあたりにさせられました。
「この韓国の歴史的現場を直接訪れることを通して、世界における観点の問題をより分かりやすく提供できないだろうか?」
この疑問は、積極的な行動を誘発しました。是非これを平和に慣れすぎている日本の人達に共有したいと思い、 多富洞(タブドン)・倭館(ウェガン)・浦項(ポハン)地域 を、約10回合計200名ほどの日本人や、40名ほどの韓国人の方々と回らせて頂くことになったのです。
実際その前から38度線である板門店や、独立記念館に多くの日本人をお連れしましたが、大邱から近くてよりリアルなこの地域を訪れることによって、遂に教育観光ツアー「ヌリ路」が誕生することになったのです。
そしてそんな時、韓国言論界でとても有名なチョ・ガプチェ氏との偶然なる出会いによって、この事実が「韓国との出会い」という手記になり、そのサイトでは手記を読んだ韓国の方々が涙を流されたというコメントまで頂くことになりました。
同時に応募した公募展では光栄なことに優秀賞までも頂き、この韓国の地で日本人が賞金までも頂くことになったのです。(その賞金は私費をプラスして、寄付させて頂きました。)
奇跡はありました。
ありのままの正直な想いは、国家・民族を超えて共有することが可能でした。
そうです、観点を超えることができる「間」が、そこにはあったのです。
あの時、サイトにアップされた韓国の方たちのコメントは、私を感動の涙で震えさせ、その震えと涙で画面が見えなくなったことは一生忘れることができません。
「国家民族を超えた共有可能な歴史の再解釈は、どこまで可能だろうか?」
この疑問に対しての答えは、今でも模索中であり挑戦中です。何よりもこの疑問は、今でもこうして手記を綴るという行動の原動力になっている、ありがたい疑問の一つです。
またその頃出会った、韓国統治時代を韓国人の作家が客観的に表現した本は、またもや私に衝撃を与えました。アジアの中の韓国という国を、熱く抱きかかえることを可能にさせてくれた人生を変える一冊でした。
同時にこの時から、当時開化派である金玉均の存在を知り、今の時代の金玉均を今度は失敗することなくしっかり育てたいと、思うようになりました。
「当時の失敗は、いったい何だったのだろう?」
時代は繰り返されるといいます。日本人として、あの時の失敗を2度と繰り返してはいけないという、強い意志を誘発させました。
この疑問に対する答えもやはり、実践を通して得ていくものであると思っています。そしてそれからは、アジア全体を意識するようになりました。
その時訪れた倭城の存在も、とても新鮮でした。
戦前日本が統治した時代ではなく、それ以前に侵略した姿がそこにはあったのです。実践行動の日本の姿を、深く感じさせられることになりました。
「日本が意識したアジアとは何だろう?」
そして次に「アジアは韓国中国だけじゃない」という帯に惹かれて買った本は、日本と韓国という枠からアジアレベルまで一気に私を引き上げてくれました。
特にその中で書かれていた台湾の存在を通して、私の日本史観が全くひっくり返される一冊となりました。台湾に行きたい、もっとアジアを知りたいと思うようになりました。
「日本が同じように統治した、韓国と台湾の違いはいったい何だったのだろう?」
それはより深く台湾を知りたいと思うようになり、その本に紹介されていた司馬遼太郎さんの本を読むきっかけとなりました。
その時出会った司馬遼太郎先生の知的な言葉と、その言葉の配列を通して爽快感を与える高度な文才は、私を感動させました。
特に紀行文という形態のシンプルさに驚き、この文体が私の理想となり明確な目標となりました。
この時ちょうど、ソウルの歴史博物館や徳寿宮・清渓川博物館との出会いを通して、高宋やソウルの街が通過した近代化の涙や痛みと重なったのです。
そんなソウルとの出会いは、西洋列強の存在を教えてくれました。
そして同時に司馬遼太郎先生の本が、ソウルの手記を書くモデルとなったのです。これによって教育観光ツアー「ソウル編ヌリ路」が完成しました。
「西洋列強がアジア全体に見せつけた近代化とは、いったい何だったのだろう?」
「西洋列強ってなに?」
それから西洋列強と近代化は、当面の課題となりました。そしてそこで出会った答えが「アジアの涙」だったのです。
西洋列強の対称性として、アジア諸国が一つになることができました。日本や韓国・台湾・中国など観点から、一気に共通の「アジア」に俯瞰することができたのです。(その時の細かい心の動きは、手記「ソウル」に綴られることになりました。)
それから出会う本たちは、またもや感動の連続でした。
まず李光洙先生が書かれた本では、新しい時代における啓蒙運動による文学の影響力とその位置を知って、執筆活動に対する明確な方向性を提示してくれることになりました。
「今までにない新しい時代のライフスタイルを、文学で啓蒙できないだろうか?」
この質問に対する答えは、今でも挑戦中です。ライフスタイルとして提供したい、そんな想いを強くさせられた素敵な一冊になりました。
そしてその頃よく通ったソウルの町並みは、100年前に師が歩まれたことを想っただけでも胸が熱くなり、ソウルがより恋しくなり心から愛する地となりました。
こんなにまでも私の観点を広げてくれた歴史が好きになり、土地(地理)が恋しい存在になりました。
「世界史とは何だろう?そして、日本史とは?」
歴史が好きになった以上、もっと出会いたいという欲望にかられます。
そんな想いは、分かりやすくまとめられた世界史と日本史の2冊の本との出会いに繋がります。その本は、自宅まで世界史の高校の教師や日本史の塾の先生が、丁寧に教えに来てくれたという感覚で読ませてもらいました。
その時ちょうど日本の家の本棚にあった、高校世界史補助教材である第一学習社の「世界史図表」は、一人でいる時もじっくり眺めながら、ワクワクさせられる一冊になったのです。世界史の楽しさにハマりました。
この時代にこの国ではこうだったのか、などなど。ページを前後させながら、夜が更けるのも忘れたぐらいです。
何よりも歴史の中での西洋列強の存在を知り、その対称性としてのアジアと出会いました。そのアジアという観点では、国家を超え民族も超えられるので、反日や嫌韓は一切ありません。
20年間捕らわれていた観点の呪縛から脱出させてもらえた、素敵な出会いとなりました。西洋列強との出会いやアジアの涙との出会いは、私にとって救いでした。
「もっともっと知りたい、アジアの涙とは?」
同じ頃に大阪出張を通して、韓国の若いメンバーが日本の近代化に触れて、また日本語チームの大阪修学旅行を通して、教育観光ツアー「大阪編ヌリ路」が日本人だけではない海外の人達にも受け入れられるコースになることを確信し、日本の近代化の原動力を知り伝えることができました。
「日本の近代化とは?」
「日本の近代化の歴史を世界に共有するためには、どうしたらいいのだろう?」
この疑問はその後、京都・北海道に繋がることになりました。
次に「アジアは韓国中国だけじゃない」という帯の第2巻は、遠くヨーロッパのマルタという島を通して日英同盟の存在を知り、インドネシアの独立解放軍に終戦後の日本兵士が帰国せず現地の人達と一緒に戦った事実や、マレー半島での大英帝国との事実を知って、1月に訪れたタイ・シンガポール・台湾旅行の前準備として、大切な出会いをさせてくれた一冊となりました。(その時の細かい心の動きは、手記「アジアの中の日本 シンガポール編」に綴られることになりました。)
「日本はなぜ、大東亜戦争を起こしたのだろう?そして、その後の日本は?」
西洋列強の存在を通して、日本の当時の動きも理解はできました。
しかしこの問題に対してはいろいろな観点があるので、一つの答えはないことも同時に知ることになります。歴史とは一つの観点に収まることができない、ということも感じることができました。
また、同じ頃出会った本の中で、「民族形成に不可欠なもの(昔からあるように思われる理由)は、人々の感情に訴える、詩的で、道徳的で、共同体の統合に役立つ物語としての歴史」という言葉にショックを受けました。
なるほど、民族形成に必要なものが歴史であり、その歴史も人々の感情に訴える、詩的で、道徳的で、共同体の統合に役立つ「物語」としての歴史、ということは、いかに歴史をストーリーテーリングするか!ということになったのです。
はい、今私がチャレンジしていることが、まさしくそれです。
「人々の感情に訴える・・・・・詩的で・・・・・道徳的で・・・・・
共同体の統合に役立つ・・・物語としての歴史は、どうやって創れるだろう?」
これからも、頑張ろうと思っています。
その頃タイとシンガポールと台湾に行くことになりました。日本と韓国以外の、アジアに直接行ったのです。これらの国々はそれぞれ全てが素敵で、その国の尊厳とその国が通過してきた歴史の尊厳を、必ずや花開かせたいと強く思いました。
これはある本の引用からですが、ここに残しておきます。
「欧米列強が植民地支配する手法は、常に「Divide and Rule(分割統治)」であった。その土地の人々の分裂を広げ、人々の一体感を割くことである。それが、支配する側にとって最もリスクが少なく、最も効果的だった。」
西洋列強がこのアジアにしたこと、そして現在もしていることが明確になりました。土地の分裂を広げて、人々の一体感を割く。確かに支配する側にとっては、これほど便利なことはないですよね。
まさしくアジアはその手法に、まんまと引っかかっているといえるのではないでしょうか。
この文章を手記に入れながら、日本が3年間統治したシンガポール(海南島)での事実を、日本の観点からシンガポールの手記を書きました。
ありがたいことにこの旅行は、アジアの涙を直接感じることになったのです。
「どうやったら、国家意識・民族意識を超えることができるだろうか?」
この国家・民族の観点とは、本当に、本当に根深そうです。
それから理系の現場の方が書かれた、地形によって歴史を解釈する本を通して、地形と歴史の関係の面白さを教えてもらいました。
特に古代の縄文海進という5m海水が上昇すると、実は日本は沼地と山でできていた国であったことがわかりました。海路と水路、水を制することの意味、山林の伐採の意味など、地形や地理というものにとても魅力を感じていくようになりました。
「地形や地理を通して、歴史をどう再解釈できるだろうか?」
それからも理系の現場の方が書かれた「鉄」に関する本は、国家・民族を超えることができる古代に焦点を当てた最高の出会いでした。
上記の本とこの本を通して、「金海 伽耶」の手記を書くことになり、そこを訪れることになりました。教育観光ツアー「金海編ヌリ路」の誕生です。
それは古代を通して、日本と韓国が繋がることが可能になり、海洋民族たちの都市国家同盟などが尊厳シティー構想に繋がりました。(その時の細かい心の動きは、手記「金海 伽耶」に綴られることになりました。)
「古代を通して国家民族の壁を、どこまで超えることができるだろうか?」
その頃仕事でソウルに行きながら、西大門刑務所や梨花洞のタルドンネも訪ねつつ、もう一度近代化の中で創られていく観点の恐ろしさと、西洋から蹂躙されたアジアの厳しい生活の現状などを感じさせられました。
「この国の感情を伴った強烈な観点に、どこまで向き合えるだろうか?」
それから今度は、金玉均について探していた時、甥っ子が一冊のマンガの存在を教えてくれたのです。この時代背景と金玉均の存在こそが日本と韓国の分離点として見た時、居た堪れない思いになり心が震えました。
金玉均を育てようと思っていた福沢諭吉の存在と、その後の対応など。金玉均が歩んだ、小笠原諸島や北海道に必ずや行きたいと思うようになりました。この時が、北海道との初めての出会いでもありました。
「あの時福沢諭吉はじめ興亜論者たちは、なぜ金玉均への対応を変えたのだろう?」
「日本帝国時代の失敗の根本とは何か?」
特に当時の福沢諭吉の変化と、その周りの日本人指導者たちの動向に関心が行きました。そして遂に幕末と明治維新当時にも、焦点が行くようになります。
その頃第3回ヌリショという日韓交流イベントが大邱で開催され、一日目の舞台に手記「韓国との出会い」で賞を頂いたことについて、若い韓国のメンバーと一緒に登壇してお話させて頂くことになりました。
韓服を着て大邱の方々にその内容を共有させて頂くことになり、とてもありがたい場となりました。
それからは、李登輝さんの著書を読むことになります。その本では、今の時代のアジアのリーダーとしての理想像を提示してくれました。特に女性の時代を感じ、この韓国社会で女性たちの潜在能力を必ずや発揮させたいと思うようになりました。そしてアジアとしての台湾に、また魅力を感じる一冊となりました。
「この韓国社会で、女性の無限なる可能性をどう発揮させられるだろうか?」
その時、教育観光ツアー「ソウル編ヌリ路」のもう一つ「梨花洞コース」を創った時で、同時に手記もう一つの「ソウル」を綴ることになりました。(その時の細かい心の動きは、手記「ソウルⅡ 母の国」に綴られることになりました。)
また、あの時行ったソウルの吉祥寺の由来と、ベク・ソクという詩人の存在、そしてユン・ドンジュの映画などが重なり、李光洙と共に韓国文学上尊敬する師たちの、激動の時代の中で綴られた文学に浸ってみました。
「日本統治時代と終戦、朝鮮戦争時期の、韓国の近代文学者たちの想いとは?」
そしてまた偶然に、日本各地域の歴史的意味を解いた司馬遼太郎先生の本を手にすることになりますが、これによって一段階として手記「エデュノミクス・シティー大阪」という「関西」の前身を書くきっかけになりました。この本を通して歴史的見解の深さに感動しつつ、同時に司馬遼太郎先生の思想もわかるような気がしました。
「歴史から受け継ぐ、日本各地域の個性とは?」
海があってお魚が存在するように、その地域が持つ(地理的・歴史的)カラーが一人一人の個性にも影響を及ぼすことを知りました。日本史も味があります。
そして同時に「大阪編ヌリ路」を通し現地で感じたことを手記にまとめながら、大阪もとても素敵な場所であることを知りました。そこには、日本の近代化の根っこがありました。
その後、ニュースを通して世界史を読み解こうとする本を通してイスラム教を学び、宗教・哲学その他、いろいろな面での世界史に触れる機会が必要だと思わされました。
また同じ頃、執筆活動をされている台湾の方にお会いするということで、書かれた本3冊を読ませて頂くことになりました。
その本を通して台湾の方々の温かさに触れ、お会いしたらとても気さくな方だったので、よりもっと台湾に魅せられました。
「台湾での展開は、どのような形になるだろう?」
そして以前から、好きな作家である塩野七見さんが書かれたある本は、また私に理想像を提供してくれました。そこではヨーロッパから見た日本の在り方を切れ味良く痛快に書かれていたので、私も海外から日本と全世界を対象に尊厳というテーマを土台にして、歴史を再解釈していきたいと思うようになりました。
「尊厳による歴史の再解釈は、どこまで可能だろうか?」
ちょうどその時、アメリカのサンフランシスコとワシントン・ニューヨークに、アメリカ事務所見学を兼ねて出張に行きました。観光ではない普通のアメリカを見た時、この国も病んでいると感じさせられました。
早くこの観点の問題を提示して、西欧人たちにも伝えていきたいと思うようになりました。同時にワシントンのスミソニアン博物館の一つであるインデアン博物館に行った時、アジアを超えて同じ黄色人種の涙をも感じることができました。いつか落ち着いた時に、アメリカについても書いてみたいと思います。
「黄色人種の涙とは?」
またその頃、アメリカに行く前に少し読んだ本は、世界地図を逆さまにして見ながら、原住民といわれる黄色人種の分布図がとても印象的な一冊で、同じ作家のもう一つの本を手に取ることになったのです。
そしてそれらの本は、のち北海道の開拓とアイヌに繋がり、北海道の手記の土台にもなりました。
「新天地開拓とは何だろう?アメリカの始まりとは?」
「大航海時代から、帝国主義の植民地化政策とは何だったのだろう?」
それからある一冊の本の中で、「1920年代の地理学者が、イラクは世界の関が原でありその時日本が白人の覇道になるか、黄色人種としての王道を選択するか重要な問題である」とあって、大変驚かされました。アジアから世界へ。
アメリカ帰りにとって、また一段階観点を広げさせて頂くありがたい一冊となりました。
「もう一度考えたい。世界における、日本の役割とはなんだろう?」
そして遂に、あるイベントにおいて北海道ミッション発掘のために北海道博物館などを同僚と共に訪れて、北海道の土地が持つ涙との感動的な出会いがありました。日本にもこんな所があったのです。
その時、教育観光ツアー「北海道編ヌリ路」が完成しました。同時に「北海道」の手記も完成しました。 (その時の細かい心の動きは、手記「北海道」に綴られることになりました。)
その手記を書くために、いろいろな本を読ませて頂きました。何よりも、出会った内容が深かった分じっくりじっくり読ませて頂きました。明治維新初期の日本の苦労、西洋列強のロシアの存在、北方面の交流の歴史、驚くことばかりで心が震えました。
「急がれた日本の近代化、明治維新とはなんだろう?西洋列強との関係とは?」
その後同僚から勧められた一冊のマンガの本は、「生きる」をテーマにした北海道開拓の苦労の女性版に、心が引き裂かれそうになりながら、今ここに存在していることに対する先人たちへの感謝の想いを深めることになりました。
朝鮮戦争後のソウル以上の貧しさを通過しながら、今ある美しい北海道の地に感動させられました。北海道の手記では国家の正体について、できる限り表現させて頂いたと思っています。
「どうやったら全人類に生きることとは何かを、提示していけるだろうか?」
「国家・民族を超えた、共同体の在り方をどう提案していけるだろうか?」
それからまた出会った本は経済の観点から世界を解釈する一冊で、読みながらゾクゾクした一冊でした。グローバル資本主義の崩壊や、エリートといわれている人たちの問題点、経済が人類の方向性を具体的に表現しやすいものであることなどがわかりました。人類歴史の中での、経済も面白いですね。
「規定された観点に振り回されない、意思決定能力をどうやったら育てられるだろうか?」
またその頃、全く違った観点から出会った本は、日本の天皇という立場のご苦労や皇后陛下である美智子さまの存在の偉大さやそのご苦労を、考えさせられた一冊でした。天皇制という存在を通して、日本をより知ることになりました。
「日本の天皇制とは何か?天皇とは?」
そして当時、和歌山県出張と共に、事前に準備されていた京都の琵琶湖疎水記念館に訪れて、関西手記を書く準備をしました。
大阪企業家ミュージアムも日本の近代化の土台を見せつけてくれましたが、京都の琵琶湖疎水記念館では水路を造り、水を制したリーダーの意志と民衆の一体化に感動させられました。
同時に教育観光ツアー「関西編ヌリ路」も完成し、一緒に訪れた人たちとも共有させて頂きました。(その時の細かい心の動きは、手記「関西」に綴られることになりました。)
「主体性・創意性を育てるためには?」
「創る喜びを、どうしたら共有できるだろうか?」
それからは、ある作家のシリーズにハマります。これらは新しい観点での世界観を広げてくれました。中でもそのシリーズの日英近現代史については、イギリス憲法の存在意義や、この国の歴史もいろいろ大変だったこと。
日韓近現代史については、高校の歴史教科書の現状などで関係性の国としての苦労を感じ、日露近現代史については、韓国中国の民族主義や日本の自虐史観と共産主義との関係など。
西洋列強にも蔓延る共産主義の癖悪さなどを訴えていて、とても痛快でした。
「全世界に蔓延る、共産主義とは何なのか?」
またあの時出会った、海から見た世界経済に関する本では、水を制する関西と海を制する九州が繋がって、海の貴重さ、海を知ることの重要性などを深く感じさせられました。
それからというもの、すっかり海に焦点が行きました。
「海路とは何か?地球の70%である海とは何か?」
そしてそれから出会った、日本近現代史を戦争という観点から読み取った本では、戦争を通した歴史の再解釈だったので、とても新鮮で面白かったです。
リーダーとしての姿勢態度の重要性、すべては「人」であることを実感させられ反省させられる、ありがたい一冊になりました。
また同じ頃読んだ組織論系の本を通しても、結果主義ではない、モチベーションを高めることができるリーダーの重要性を知ることができました。
「この韓国の地で、どんなリーダーを目指すべきなのか?」
それでは最後に一つ。
これはどこかの新聞で読んだ記事ですが、ハーバード大学の心理学の教授が「自分が享有する空間が多ければ多いほど、自分の正体性が多様であればあるほど、幸福になりやすい構造と直結する」という実験の結果を得た、という内容です。
これはちょうど、教育観光ツアー「ヌリ路」そのものであり、まさしく私のことでした。
それはまず、歴史的価値を通して、享有する空間である地域に直接訪れること。
それを通して地域の歴史的価値をより深め、その地域の方向性を発見すること。
そしてそんな素敵な地域に魅せられ、その地域が大好きになればなるほど、その時空間に恋する自分の正体性が多様になり、何よりも私が幸せになっていったのです。
そうです、そんな素敵な歴史と、愛する地域との出会いとなった「ヌリ路」に心から感謝しています。
ちなみに「ヌリ路」の語源は韓国語「ヌリダ」という、日本語では「享受する」という意味に「路」を合わせたものです。すなわち「享受する路」ですね。
はい、これからも多様な疑問を持ち続けながら、新しい歴史観・世界観を提供して、多くの人々と共に享受できる「尊厳の時代」を創っていきたいと思っています。
長い間お付き合い、ありがとうございました!
ではそろそろ、古代を中心とした九州に突入していきたいと思います。
2016年11月6日 風が強い曇りの日曜日
(アメリカ大統領選挙トランプ当選2日前・・)
nurico
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拙い文章を読んで頂いて、ありがとうございました。 できればいつか、各国・各地域の地理を中心とした歴史をわかりやすく「絵本」に表現したい!と思ってます。皆さんのご支援は、絵本のステキな1ページとなるでしょう。ありがとうございます♡