沖縄Ⅱ 歴史編
人生の大きなポイント時に、今まで2度ほど沖縄行きが決まってましたが、出会いの準備が足りなかったようで、行く機会を失っていました。
しかし去年、沖縄に魅せられた韓国の20代の女の子に「沖縄は韓国と似ている。是非行ってほしい。」といわれた時に、はっ!とさせられました。
「そうだ、今なら沖縄に出会える。」そう思いました。
実際ここ3年間で感じていたことは「韓国」「沖縄」「台湾」「北海道」が、「似ている」ということでした。
その中でも特に、日本がアジアや世界に繋がることができる「間」が、沖縄にありました。
まるで、磁石の「N」と「S」の「間」のように。
沖縄の歴史は日本人はもちろん、韓国を始めとするアジアや世界中の人たちに、必ずや知って頂きたい内容です。
引き続き、歴史編も、御一緒させて頂けたら幸いです。
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歴史編
那覇市内に近づくと、立ち並ぶビルを眺めながら友人が一言いった。
「原始時代から、現在に戻ってきたみたい。」
今回はいろいろな角度での、時間移動の旅行でもあるようだ。
沖縄県立博物館に着いた。ここは、美術館も併設されている。
壁に囲まれたこの建物は、沖縄のグスク(御城)をイメージしてデザインされたという。
シンプルな中にも、自然の温かさを感じる。
この博物館では、海によってアジアや太平洋地域と深く結ばれた沖縄の「海洋性」と、 海によって隔てられながら独自性を築いていった沖縄の「島嶼性」という二つの側面を、「海と島に生きる」というコンセプトで表現していた。
ふと、そんな沖縄の人たちにとっての「海」とは何かが気になった。
それは入り口の、プロローグにあった。
一つ目は、海のはるか彼方に『二ライカナイ』という神々が住む場所があると信じ、豊かな恵みを与えてくれる海に感謝したそうだ。またその海は、同時に人々を島に閉ざしてしまう絶望の海でもあったという。そして三つ目は、黒潮の流れに沿って船で貿易を行い、世界に開かれた「海の路」でもあったのだ。
神のいる感謝の対象としての「海」、そして閉ざされた絶望の「海」、また世界行きの路としての「海」。感謝と絶望の海が・・・「路」となった。
まさしく、そこには「意志」があった。
海洋民族にとって主体的な「意志」こそが、生命の「路」を開いたのだ。
思わずディズニー映画「モアナと伝説の海」が、頭の中で展開される。
観光客である私の「海」に対する概念が、すごい勢いで変わっていく。
またそこには、イノーについての説明もあった。
沖縄の人々にとって、最も身近な海がイノーだそうだ。そこは珊瑚礁が荒波を遮ることで、海藻が茂り、魚や貝、ウニ、タコなどの生き物を支える豊かな「海の畑」であるという。
なるほど、確かにイノーは、わざわざ捕りに行かなくても魚などが勝手に来てくれる「海の畑」なのだろう。
沖縄の人たちにとって、ある意味イノーまでが「作物が生る」陸上なのかも知れない。
入り口の展示に、「 イノーに広がるサンゴ礁を足元に見ながら、あたかも島に上陸するような感覚を体験できる。」とあった。やはりイノーからは「陸」に上がるようだ。
足元のガラスの中の珊瑚を意識しながら、館内に入っていった。もう入り口だけで、この博物館にやられてしまった。
そんな沖縄の人たちの、特に博物館を運営する人たちの熱い意志に感服だ。
ホームページを見ると「広く内外に沖縄の独自性や、優位性の良質な情報を発信する。」とあった。
この博物館の常設展示は、大きく8つに分かれていた。
はじめの「海で結ばれた人々」では、旧石器時代から10世紀までの貝塚時代を表し、化石の宝庫である沖縄として港川人や多様な化石などと貝塚時代の生活を表していた。
次に「貝塚のムラから琉球王国へ」では、11世紀ごろからグスク(御城)時代になり、御嶽(うたき=聖域)を構え複合農耕を始めて、海外交易も活発になる。按司(アジ=首長)達の権力争いで北山・中山・南山の三山時代の末、1429年に統一され琉球王国が形成された。
まず、ここまでの沖縄の歴史に、驚いた。
それは時代的に北海道博物館の展示と、この沖縄県立博物館の展示が似ていたからだ。
下記の「北海道・本土・沖縄の歴史展開の概念図」でもあるように、
日本本土では、縄文時代から農業や鉄器などを使用した弥生時代、のち平安時代を経て江戸時代の時に、北海道では続縄文時代・擦文時代・アイヌ時代という狩猟のほか一部農業・漁労をしていた。
同じく沖縄でも、貝塚時代が11世紀まで続き、12世紀ごろから稲作農耕が始まるグスク時代~三山時代・琉球王国の尚氏時代となるという、独自の文化が展開されていた。
日本本土とは全く違う性格を持つ、北の北海道と南の沖縄の共通点の中に、それぞれの島のアイデンティティーを想う。
また、博物館に戻ろう。
3つ目の展示は「王国の繁栄」として、 中国との冊封・朝貢貿易を確立していた琉球が、中国・日本・東南アジアをつなぐ中継貿易を行い、東アジア有数の貿易国家として繁栄し、より強固な国家体制がつくられていた。
日本本土は中国との冊封・朝貢貿易は、ほぼ無かった。一方朝鮮半島の朝鮮王朝は紀元前から、琉球と同じように中国との冊封・朝貢貿易を確立していた。特に琉球は、東アジアの「中継貿易」の貿易国として繁栄したという。小さいながらも王国を維持し、独特で個性的な歴史を持つこの島に魅了させられる
4つ目の展示は、「薩摩の琉球支配と王国」として、1609年に薩摩島津氏の侵攻によって琉球は江戸幕府の影響下に置かれたが、中国との関係は引き続き維持された、とあった。
さらに5つ目の展示では「王国の衰亡」とし、 中国・日本という両大国との関係を維持してきた琉球が、19世紀に財政難などが原因で王国の経営が行き詰まる。さらに欧米諸国の外圧が押し寄せ、王国は危機的な状況に陥る、とあった。
似ている、そう思わざるを得なかった。
6つ目の展示は「沖縄の近代」だった。 1879年、明治政府による琉球処分が行われて王国は消滅し沖縄県が誕生。その後旧慣温存の措置によっておくれをとるが、徐々に整っていったという。また日清・日露・日中戦争を経て、太平洋戦争の進捗とともに、沖縄も戦争体制に組み込また。1945年住民を巻き込んだ日米両軍による地上戦がこの沖縄で行われ、23万余りの尊い人命と多くの貴重な文化財も失った、とあった。
想像はしていたが、やはりそうか。
大日本帝国の影響を同じように受けた韓国のソウルにある徳寿宮と重明殿や、時期的な違いはあるが朝鮮戦争の熾烈な戦場となった、慶尚北道の漆谷郡多富洞が脳裏をよぎる。
7つ目の展示は「戦後の沖縄」では、大きな戦禍をこうむった沖縄は住民たちがゼロからの出発をした。また施政権は日本からアメリカに移り、27年間のアメリカ統治に入った。米国民政府は東アジアの戦略基地として沖縄を重要視し、基地の機能強化が進められるなか住民への被害も続出し、日本への復帰運動が起こる。その結果、1972年に沖縄の施政権は日本へ返還されたが、多くの基地が残された。
戦後27年間もアメリカであった沖縄。その後返還されても、多くの米軍基地が残っている。
最後の展示には「エピローグ沖縄の今、そして未来へ」として、復帰後に沖縄文化の優位性は認知され、より発展する沖縄を表していた。
この沖縄旅行が決まった時から、ある意味祈るような想いで生活してきた。
明日行く首里城や平和記念公園へその想いを託して、その日はこのまま那覇の地に身をゆだねた。
空の雲は重く雨を含み、風も強くなってきた。
「もう泣かないで下さい!」と、思わず空に向かって囁いた。
一日目の那覇の夜は、長かった。
昨日の夜の強風は、いったいどこに行ったのだろう。
次の日、穏やかな朝を迎えた。
今日は午後から、雨になるという。
今日のコースには、雨もいい。
車で首里城に向かう。小高い丘を登って行く。
同時に来る前に読んだ本の、一節を思い出す。
「琉球王国時代の都・首里は、守備軍が首里城の地下に司令部を置いたために、沖縄のどの戦場にも増して破壊し尽くされた。(略)1945年5月31日、首里城跡に星条旗がひるがえる。」
唯一日本で地上戦が展開されたのが、沖縄である。そしてここは、首里城の丘。今日訪れる土地が持つ全ての「痛み」は、私たちの想像絶するものだ。
首里城の赤い色彩が、青い空に美しく浮かぶ。
想像していた以上の荘厳さに、韓国の友人と共に感嘆する。
1372年、琉球に明からの使者が入貢を促し、それにこたえた中山王は貢物を納め中国の冊封体制のもとに入った。その後北山・南山もこれに続き、三山時代を形成。1429年に三山は尚巴志によって統一され、中国から派遣された冊封使が皇帝の確認のもと、新しい国王の任命する式が行われ「琉球王国」が成立した。
琉球の王は勝手に「琉球国王」を名乗っていたのではなく、中国の皇帝から任命されて初めて国王になったということだ。
琉球国王はこれによって、正式に朝貢・冊封体制下の東アジア社会の一員として大交易をすることが認められた。
特産品のとぼしい琉球は、中国への進貢品や交易品を日本から調達し、同時に日本には中国や東南アジアから仕入れた品物を売りさばいていた。
そして15世紀まで東アジア・東南アジアを舞台に、大交易を繰り広げた琉球の気概を、首里王府は「万国津梁(しんりょう)の鐘」の銘文として首里城正殿前の梵鐘(ぼんしょう)に刻み込んだ。万国津梁とは≪世界を結ぶ架け橋≫という意味だ。
まさしくこの琉球王国は「世界を結ぶ架け橋」という、関係性によるアイデンティティーで成立していた国なのだろう。
16世紀には大航海時代の波が押し寄せ、ポルトガル・スペインが進出してきた。中国では海禁策が緩み中国商人が盛んに活動をし、16世紀半ばから日本商船も東南アジアに進出するようになり、国際競争のレベルになっていった。独自の交易品を生みだせなかった琉球は、1570年以降は中国への渡航のみとなった。
1609年に島津氏による琉球侵略により、琉球が幕藩体制に組み込まれていく。同時に明への朝貢国のトップである朝鮮の次の地位を維持することで、「異国=王国」としての体制を保つことができた。そのためにも、中国への安定的な進貢を続ける必要があった。近世日本にとっても、アジアの情報を得るために重要なシステムだったという。
首里城の北殿は赤く冊封使の接待場所でもあり、南殿は薩摩藩の役人を接待する場所として木造で創られている。
大国に挟まれつつ、関係性によってこそ成り立つ国の知恵なのかも知れない。
東アジアの秩序は中国の朝貢・冊封体制下で成り立っていたともいえるが、西洋列強の帝国主義におけるアジア進出により、特に1840年イギリスによる中国とのアヘン戦争によって崩れていった。
琉球にもイギリス・フランスや、1853年にはペリー率いるアメリカの艦隊が那覇に到着していた。1854年ペリーは浦賀に来る前に、沖縄に寄っていた。
1868年明治政府の樹立後、1871年の台湾漂着琉球人殺害事件をきっかけに、1879年に廃藩置県=琉球処分によって500年続いた「琉球王国」の歴史が幕を閉め、琉球は沖縄県となった。
同時に頭の中には、同じような歴史を持つ北海道・韓国・台湾の博物館がそれぞれ浮かぶ。
西洋列強たちがこのアジアに叩きつけた帝国主義・近代国家の条件は、主権と領土と国民であった。その近代化の流れは、沖縄・北海道・朝鮮半島・台湾などを日本の領域へと化し、そこで生活している人たちを日本人としていった。
その後、首里城は1945年の沖縄戦によって焼失。1950年には、米国民政府令により首里城跡に琉球大学が開校し、1972年日本本土復帰後、1980年琉球大学移転に伴い本格的な復元が行われ、2000年には首里城跡として世界遺産に登録された。
城壁を歩きつついろいろな時代が、いろいろな地域・国家が、頭の中を駆け巡る。そして両足で触れている、この地面に想いを馳せてみる。
これらの土地の痛みを、ねぎらい労わることなんて、できるのだろうか。
今はとにかく、これらの全てと主体的に出会っていくことだろう。
次に車を、太平洋側の海へ走らせる。
琉球王国最高の聖地である斎場御嶽(せーふぁうたき)に行くためだ。
休日だというのに、車が少ない。
のんびりと、ゆっくりと、歴史の余韻を感じながら目的地に向かう。
駐車場近くの広場で、露店がでていた。
今日は何かのイベントが、あるようだ。
韓国の友人が「帰りにここに寄って、露店でご飯を食べよう。」と言った。
今回の旅行は、病気上がりの友人のためでもあった。
それがある意味、ありがたい。
琉球開びゃく伝説でもある斎場御嶽(せーふぁうたき)の「せーふぁー」とは、最高位という意味で「最高の聖地」という意味だ。
御嶽の中には6つのイビ(神域)があり、首里城内の部屋と同じ名前を持っているものもある。
キリスト教の信者であるその友人も、沖縄で一番印象的だったのは 斎場御嶽(せーふぁうたき)だと言っていた。
大自然の中で、長い時代をかけて祈られてきたその清らかさは、あらゆる宗教の枠さえも超え、心を揺らしてしまうのだろう。
凛とした空気に、心も体も浄化される。
ふと思う。
もしかして、斎場御嶽を含む沖縄全土が、この地球の「聖地」なのかも知れないと。
戻って来てから、友人と一緒に、沖縄産の海産物などを頬張った。
地球の恵みに感謝する瞬間だった。
少しすると、雨が降ってきた、それも激しく。
さっきまで晴れていたのが、うそのようだ。
4月~8月だった沖縄戦は蒸し暑く、雨もひどかったに違いない。
韓国の友人が一言つぶやく、「沖縄の雨のドライブも、味があっていいね。」と。喜んでくれる横顔を見ながら、心が落ち着く。
沖縄県平和祈念資料館は、糸満市摩文仁(まぶに)にある。
本の一節を思い出す。
「喜屋武(きやぶ)半島・摩文仁丘一帯はどこもかしこも戦傷者があふれ、葬るすべもない死体が倒れたままになっていた。(略)沖縄戦では13万人に近い膨大な数の住民が犠牲になったが、その8割以上が6月以降のこの南部の戦場における犠牲であった。」
この地に足を下ろす。それが少しでも、この地の土となった方々への供養になれたらと、静かに黙祷する。
この資料館は、2階が常設展示となっている。
まずこの展示のプロローグでは「かつて琉球の先人は、平和をこよなく愛する民として、海を渡り、アジア諸国と交易を結んだ。海は豊かな生命の源であり、平和と友好の掛け橋として、今なお人々の心に息づいている。」とあった。
ここでもう一度、主体的に海を渡り、アジア諸国を交易で結んだこの沖縄の「関係性」に焦点を当てたアイデンティティーを、確認させられた。
第1展示室では「沖縄戦への道」として沖縄戦にいたるまでを、第2・第3・第4展示室は住民から見た沖縄戦を、それぞれ「鉄の暴風」「地獄の戦場」「証言」として展示されていた。
ちなみに「鉄の暴風」とは、沖縄戦では約3か月にわたって米軍の激しい空襲や艦砲射撃を受け、その無差別に多量の砲弾が撃ち込まれるさまを暴風にたとえたものである。
そして最後の第5展示場は「太平洋の要石」として、戦後の収容所生活、27年間の米軍統治、復帰運動、平和創造を目指す沖縄が展示されていた。
その資料館を訪れる全ての人たちは、ひとつひとつじっくりと見入っていた。
朦朧としながら展示室を出ると、そこには大きな窓の先に太平洋の海が広がっていた。
今からわずか70年前、ここが熾烈な戦場だったということを、忘れさせるぐらい静かな海だった。
雨でかすれた前方には、平和の礎(いしじ)が見える。
沖縄戦で亡くなられた、国内外20万人の名前が刻まれているという。
外の雨は、今まで以上に激しく降ってきた。
次に資料館と平和記念塔の間にある、韓国人慰霊塔に向かう。
戦争当時日本だった朝鮮半島からも、この沖縄戦に日本軍兵士として多くの人達が送り込まれ犠牲となっていった。
以前「ほたる」という、高倉健主演の映画を観たことがある。それは日本軍として戦った韓国人兵士が、沖縄へ神風特攻隊として戦い散っていったストーリーだった。映画の一場面が、目に浮かぶ。
「私は日本のために特攻に行くのではない。愛する人を守るために行くのだ!」
今回の旅行には、もう一つの目的があった。
実は私の義理の父も、沖縄戦に駆り出された人だった。だからいつか必ず、当時の現状を直接沖縄に行って知りたいと、結婚当初から想っていたのだ。
義理の父は当時「光田容吉」という名前で日本軍として戦い、捕虜となって無事帰還することができたが、耳の横にピストルの弾のかすれ跡があり、防空壕の中で激しい煙に巻かれた後遺症で、肺の病気に長い間悩まされ、最終的に肺がんで亡くなられた。
それは上の子がまだ2歳の時、今からちょうど25年前の話である。
生前、義理の父は、日本語で「日本人でも良い人はいた。逆に韓国人にも悪い人がいたしね。みんな同じ人間なんだよ。」と、日本人である私が沖縄戦について尋ねた時、やさしい笑顔でそう答えた。
そこには日本人や韓国人という国家・民族の壁は無く、義理の父が嫁を想う人間の深い愛情しかなかった。
まさしく義理の父は私に人間の「尊厳」そのもので、出会ってくれていたのだ。
ちなみに夫は、義理の父が帰還されてから生まれた子どもである。義理の父があの時もしも、この沖縄の土になっていたとしたら、夫は存在することなく、子どもたちはもちろん、私も今ここでこうしてはいないだろう。
今私がこうして、こんなにも尊い沖縄と出会えるのも、すべてはそんな義理の父がいてくれたからこそだと、深く想う。
この資料館設立理念の中には、「沖縄の心」という言葉があった。
ここには「人間の尊厳を何よりも重く見て、戦争につながる一切の行為を否定し、平和を求め、人間性の発露である文化をこよなく愛する心」であるという。
「沖縄の心」
これはある意味、地球上全ての人たちが持っている「心」であり、人間の尊厳そのものからくる「心」なのではないだろうか。
またそれは、石は石として美しいと思い、花は花として美しいと思う「心」であり、どんな国の人でも、またどんな民族であっても、人は人として美しいと思う、そんなオンリーワンの「心」なのではないだろうか。
この「沖縄の心」を人類すべてにとっての「世界の心」とし、これを共通の土台として関係性に焦点を当てた交流によって、それぞれ国家や地域そして民族などが持つオンリーワンの文化を無限大に生かし合う、そんな世界を創っていきたいと心から思う。
この沖縄の地で、土になり、草になり、花になり、木になり、風になり、海になり、空になっていった先人たちを前に、
また同じように、全世界のあらゆる先人たちの前に、それらの地域に脈々と流れる熱い想いを決して無駄にはできないから。
資料館を出て、近くの海に行った。
雨は小降りにはなったが、灰色の雲が重く摩文仁の海を覆っていた。
そんな、海と空と、自然たちの前で、強く思った。
尊厳そのものに、もどりたい!
もう、尊厳そのものに、もどろう!!と。
すると、目の前の海と、空と、風と、木と、草と、花と、土が、にっこりほほ笑んだ。
そう、尊厳の時代は、今この瞬間、この場から始まっている!!!
完
2018年2月25日 nurico
≪参考資料≫
「三訂版 高等学校 琉球・沖縄の歴史と文化」 沖縄歴史教育研究会編
「写真記録 沖縄戦 国内唯一の戦場から基地の島へ」太田昌秀編著
沖縄県平和祈念資料館 パンフレット
国土交通省国土地理院ホームページ
http://www.gsi.go.jp/index.html
沖縄県立博物館・美術館ホームページ
http://okimu.jp/museum/