一晩考えてわかった「君たちはどう生きるか」の主題(ネタバレを含みます)
先日、宮崎駿監督作品「君たちはどう生きるか」を見てきた。
見終わっての最初の感想は、あまりピンとこなかったのですが、一晩考えて、「おお!」と思ったので、(何を言わんとしているかがわかったので)見終わった人向けにここに記載したい。
(これから見る人はネタバレになるので見てからの閲覧をお勧めします。また、一部、メッセージ、すずめの戸締り、シン・エヴァンゲリオン劇場版のネタバレも含みます)
鑑賞当日の印象
見終わった直後の印象は、ともかく「自己作品オマージュがとても目立つ」だった。
・ポニョに出てきたおばあちゃんとよく似ている人がいたり
・千と千尋で出てきたキャラクターとよく似た飛び方をしている生き物がいたり
・五月とメイの家に雰囲気が似ている家があったり
・千と千尋の温泉宿の絶壁に似ているシーンがあったり
・もののけ姫のエボシによくにたキャラクターがいたり
・火垂るの墓に似ている設定があったり
などなど
それから、場面転換が多く、ついていくのが精いっぱいだった。
(戦時中東京→戦時中疎開先→黄泉の国(島)→黄泉の国(船の中)→黄泉の国(インコの国)→黄泉の国(最後の国))
主人公やラスボスや敵キャラにそこまで感情移入せず、ふわっと終わってしまった感覚だった。
帰り際エレベータで近くにいたカップルも、「オマージュがすごかったね」と言っていた。
もしかしたら他に語る言葉がなかったのかもしれない。
「これまでの宮崎駿監督作品と比べ、わかりにくい映画なのかもしれない」が私が最初に持った印象だった。
少しあらすじに触れてみたい。
母親が空襲でなくなり、疎開先でうまくなじめず、無気力になった「主人公」は、主人公の父親の新たな結婚相手である「新しい母親」が黄泉の国にとらわれていることを知り、助けに行く。
黄泉の国の神として君臨し、世界のバランスを維持しているのは大叔父様だった。
大叔父の跡を継ぎ、この世を捨て、世界のバランスを維持する仕事を継ぐように言われるが、主人公は断る。
世界を維持するための人柱が登場する話はよくあるが、この映画の主人公はそれを拒否する。
そして、主人公は、新しい母になる人とともに、黄泉の国を抜け出し、現実に戻ったのでした。めでたし、めでたし、という話だ。
鑑賞の翌日に感じたこと
映画を見た翌日になってようやく、この話のポイントは、主人公の(新しい、ではなく、)生みの母親だ、と気づいた。
主人公は、主人公の生みの母親とも、黄泉の国で会っている。
黄泉の国は、この世のどの時空とも扉でつながっていて、ふとした瞬間に黄泉の国に来てしまうことがあるようだ。
主人公の母親は、主人公を生むよりも前の段階で、黄泉の国に来ている。
そして、母親は、いずれは自分は息子を生み、そのあと空襲による火災で死ぬ運命を知っている。
黄泉の国からそれぞれの世界に戻るときに、息子は、母親に、「お母さんは元の世界に戻るといずれ火災で死んでしまう」というが、
母親は「それでも、あなたに会えるから」といい、元の世界に迷いなく戻っていく。
ここのシーンがこの映画のクライマックスだったのだとあとで気が付いた。
母親は、自分がいずれ火災で死ぬことを知りながらも、「あなたに会えるから」と自分の運命を受け入れた。
今無気力に疎開先で学校をさぼっている「私」を生むために、母は命を投げ出してくれたのだ。
その事実を知った後、主人公は、どう生きるか。
数年後、疎開先から東京に戻る静かなシーンで、映画は終わる。
静かな映画からの地続きに感じられる私たちの世界。
ふと自分自身に引き寄せて考えると、
映画の中ほどドラマチックな別れではなくても、私たちの母親は、私たちのことを命がけて育ててくれたことは想像に難くない。
それは、母だけでなく、父もまた。
祖父祖母、さらには曾祖父曾祖母もまた。
彼らは、私たちにどんな思いで命をつないでくれたか。
私たちの日常は、彼らの思いに報いるものか。
派手なシーンはあまりなく、淡々と進む映画の中で、
宮崎駿監督が最後に私たちに突き付けたのは、
まさに「君たちはどう生きるか」という単刀直入な問いだったのだと思う。
面白い/つまらない とこの映画を評価することではなく、
「君たちはどう生きるか」という問いと向き合うことが、私たちがするべきことなのかもしれない。
宮崎駿監督が私たちにさせたかったことなのかもしれない。
と鑑賞翌日にようやく気づいたので、シェアしてみました。
後日追加:クリエイターへ対しての「君たちはどう生きるか」である可能性
本作は、エンターテイメント性はあえておさえた作品といえると思う。また、視聴者に考えることを求める作品、考えることによる変容を促す作品ともとれるかもしれない。
そして、映像業界を取り巻く環境変化を考えると、別のメッセージも見え隠れしているように思えてくる。
最近、映画や映像業界(というか、エンターテイメント業界)には多くの変化があり、映像や音楽は、サブスクリプションサービスで享受できるものとして、大量に流れている。
様々なレビューサイトで「感動した」「見るべきだ」と評価され、時とともに消費されていくコンテンツといえるかもしれない。
流行りの作品を見ることが重要であり、そのための時間を捻出するために「タイパ」を求め、倍速再生やスキップ再生が一般化している。
まるで食べ物のように、コンテンツは次々と消費されていく。
キリストは「人はパンのみにて生きるにあらず」といったが、今や、コンテンツも、「パンのように消費される」時代。
クリエイターに対して「あなたたちは、消費されるための、一時的な娯楽としてのコンテンツを作り続けるのか」「視聴者の人生にかかわる作品を作るべくこの業界に入ったのではなかったのか」というメッセージも込められている、のかもしれないとも思う。
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