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高坂甚内 - その2

講談や落語にも登場するのですが、江戸時代から明治初期にかけて、小塚原刑場(荒川区)、鈴ヶ森刑場(品川区)、大和田刑場(八王子市)が存在し、江戸三大刑場と呼ばれていました。中でも東京下町の人に馴染みの深い小塚原刑場は、もともと徳川家康入府前の江戸には本町四丁目に刑場(日本橋本町2~3丁目辺り)がありました。

1590年、徳川家康が駿府より江戸に入府後に、本材木町五丁目(中央区室町1~3丁目辺り)と浅草鳥越橋(台東区浅草橋2〜3丁目辺り)に刑場を設けましたが、急激な市街地開発に伴い、新設した刑場の移転を余儀なくされました。本材木町五丁目の刑場は鈴ヶ森に、そして鳥越の刑場は浅草聖天町西方寺向かい(台東区浅草7丁目辺り)を経て小塚原に移されたとされています。小塚原刑場が使われたのは1697年〜1873年で、江戸初期は鳥越刑場が使われていたようです。小塚原刑場の話はまたの機会にして、高坂甚内に話を戻します。

■鳥越刑場
捕らえられた高坂甚内は鳥越川近辺にあった鳥越刑場に移されました。

鳥越川は、不忍池から忍川を経て、三味線堀に落ち隅田川に注ぐ川で、現在の蔵前通りと並行して流れていました。今は暗渠になっています。鳥越川に架かっている鳥越橋の上流には、浅草聖天町に移転する前の鳥越刑場がかつてありました(刑場は浅草聖天に移った後、小塚原刑場に移ります)。今の鳥越神社の蔵前通りを挟んだ向かいに位置します(現台東区浅草橋2〜3丁目辺り)。

高坂甚内は幕府のお金を盗むなど、盗賊を繰り返していたのですが、1613年ついに捕まり、市中引き回しの上、鳥越刑場に移され磔刑になりました。文武に優れていた高坂甚内は、剣豪の腕前も難なく捕まえられました。ちょうど流行り病の瘧(おこり:マラリア)を病んでいて、身動きが取れない状態だったそうでうです。

死に際、高坂甚内は竹矢来を囲む見物人に向かって、「我瘧おこり病にあらずば、何を召し捕れん。我長く魂魄を留、瘧に悩む人、もし、我を念ぜば平癒なさしめん」(意訳:瘧がなければ捕まらなかった。今後、瘧に苦しむものは私に念ずれば治してやろう)と叫びました。

この一声から高坂甚内は、熱病「瘧の神様」に祀られ、人々は蔵前の鳥越神社近くに小祠「甚内神社」を築きました。江戸の庶民は瘧になると神社に詣で甚内に祈り、現在も信仰されています。また、日常見過ごしてしまいますが、近くに鳥越川に架かっていた「甚内橋」と刻んだ遺蹟もあります。

伯山の講談から、鳥越刑場に話が飛んでしまいました。
鳥越刑場を調べてみると、また新たな発見がありましたので、次に鳥越刑場の話を続けたいと思います。

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