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北海道の名付け親:松浦武四郎
私の中学生だった頃、千代田区には5校の区立中学があり、その一つに錬成中学校という学校がありました。現在は統合されてなくなってしまったのですが、跡地が公園になっています。現在、公園内に「松浦武四郎住居跡」の看板があります。北海道の名付け親との説明板があり、北海道が好きだった私は興味が湧き、少し気になって調べることにしました。
■松浦武四郎とは
松浦武四郎は、1818年に伊勢国(現在三重県)に生まれ、日本全国を旅し見聞を広めました。その後、蝦夷地に渡り、蝦夷地の豊かな原始の自然に魅せられ、アイヌの人たちとともに全6回、13年にわたり、山川草木の全てを調査しました。明治時代になると、政府が設けた開拓使の役人となり、1869年に蝦夷地に代わる名称を政府に提案しました。
探検家、作家、地理学者、画家、博物学者として数多くの顔をもち、アイヌの人々の文化を尊重し、北海道の道名、国名(支庁名)、郡名の選定に力を尽くし、武四郎の名称案の中から「北海道」(当初は「北加伊道」と命名)が選ばれ、命名されました。
「加伊」は、アイヌの人々がお互いを呼び合う「カイノー」が由来で、「人間」という意味です。「北加伊道」は「北の大地に住む人の国」という意味であり、武四郎のアイヌ民族の人々への気持ちを込めた名称でした。明治新政府は「加伊」を「海」に改め、現在の「北海道」としました。国名、郡名についての上申書も提出しており、その土地の名前も、武四郎が蝦夷地を調査しているときにアイヌ民族の人々から教えてもらった土地名が由来となっています。
■アイヌとの交流
2019年NHK総合テレビで、北海道150年記念ドラマ「永遠のニㇱパ 〜北海道と名付けた男 松浦武四郎〜」(作:大石静)を見ました。ちょうどはじめて説明板を読んだ時期と重なりました。
松本潤が武四郎をやっていたのですが、武四郎がアイヌの方と幕府との間で苦悩する姿がよく描いていて、とても良いドラマでした。実際にはどのようだったのか分かりませんが、アイヌ語の地名を参考に、国名・郡名を選定したことから、アイヌ文化や人々に共感しているのが良く分かります。
しかし、やがて蝦夷地を経営している松前藩や幕府のアイヌへの支配を強め、搾取略奪の実態を目の当たりにするようになると、開拓使の職を辞しました。
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■晩年
晩年は骨董品の収集を趣味としました。全国各地をめぐりながら、特に奇石や古銭、勾玉の収集に熱中しました。武四郎の肖像写真には、武四郎が集めたたくさんの勾玉をネックレスにしたものが三重県にある「松浦武四郎記念館」で見ることができます。68歳から、三重県と奈良県の境にある大台ケ原に登ります。68歳、69歳、70歳と3度にわたる大台ヶ原登山をおこない、その後富士山にも登っています。
神田五軒町(錬成中学校跡地)には、屋敷を構えた1873年から、亡くなる1888年まで暮らしました。武四郎が屋敷の片隅に建てた一畳敷書斎は、「死んだら解体して荼毘についてほしい」の遺言に反して、移築を繰り返され、現在は国際基督教大学に移築・保存されています。
中学時代、松山千春や中島みゆきが好きになり、北海道に憧れ、何回も訪れました。新婚旅でも行きました。歴史的に見ると負の歴史もたくさんありますが、私にとっては何もかも素晴らしい憧れの土地です。
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