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鳥越刑場 - 浅草・鳥越きりしたん殉教記念碑

高坂甚内を調べていましたら、鳥越刑場にたどり着きました。

「カトリック浅草教会」という教会が近所にあります。私が物心ついたときから、認識している教会です。私はクリスチャンではないので、よく知らなかったのですが、「カトリック浅草教会」は東京で比較的早い段階から日本人のために設立した教会で、明治時代は東京6教会で最も多い信徒数になり、大きく活動した教会とのことです。その後巡回教会になり、本所教会(墨田区石原)や関口教会(文京区関口)に発展します。関口教会についても書きたいのですが、話がとりとめもなくなってしまいますので、今回は遠慮。

■江戸幕府2代将軍・徳川秀忠
豊臣秀吉は、キリシタン大名と宣教師の結びつきが強くなって大名が勝手に領地を譲るなどの都合の悪い行動が見られたことで宣教師を国外へ追放することにしました。しかし、宣教師が仲介する南蛮貿易の利益を無視できずに徹底されませんでした。徳川家康は、当初はキリスト教を黙認しましたが、徳川中心の体制をゆるぎないものにするために、最終的には全国にキリスト教禁教令を出しました。

家康の意思を継いだ2代将軍・徳川秀忠は武家諸法度・禁中並公家諸法度の制定、キリシタン禁制の強化,貿易の統制など幕藩体制の確立につとめました。

1963年、幕府は大規模なキリシタンの迫害をします。前年の禁教令によって教会が破壊されたあと、江戸の使徒たちはルイス・ソテロ神父が建てた浅草のハンセン病内の礼拝堂を拠点としていたのですが、秀忠は厳格なキリシタン捜索を命じました。信徒たちは一斉に捕まり、小伝馬町の牢に投獄されます。その後、8〜9月にかけて鳥越刑場で殉教します。

■浅草・鳥越きりしたん殉教記念碑
「カトリック浅草教会」裏手の一角に、「浅草・鳥越きりしたん殉教記念碑」なるものがひっそりとあります。

碑にはこのようなことが記載されています。

この地に鳥越川が流れ、隅田川に注いでいた。
この今は暗渠となっている鳥越川のほとりで江戸時代の初期一六一三年八月一六日、小伝馬町の牢獄に捕らえられていた者と共に八名のキリシタンが、幕府の禁教令にめげず信仰を守り通して斬首された。
同じく翌一七日には一四名、九月一九日にはさらに五名がこの鳥越川のほとり、甚内橋より東の地にて処刑された。
これらの幕府の迫害にも屈せず、神への純正なこころを貫き通した人々の殉教をいつまでも忘れぬよう、この地に、この記念碑を建立した。
二〇〇二年一月 カトリック浅草教会

[鳥越で殉教した二八名]
ミカエル笹田 ヨアキム破竹庵 アントニオ世兵衛
ヨハネ門前 トマス神田喜兵衛 レオ大工
ルカ神田 ビンセンシオ田辺 (以上八月一六日)
マルコ喜左衛門 トマス喜右衛門 ヨアキム源内
シモン彦左衛門 アントニオ半三郎 ヤコブ栄蔵
レオ作内 ヨハネ保四郎 マルコ権助
ミカエル弥蔵 マティア新五郎 ダミヤン茂助
ヤコブ弥四郎 ヨアキム源左衛門 (以上八月一七日)
伝道師ヨハネ末木 伝道師グレゴリオ 大名の小姓パウロ
同じくグレゴリオ 牢内洗礼の某 (以上九月一九日)
ほかに小伝馬町牢で獄死したアポリナールがいる。 以上

「浅草・鳥越キリシタン殉教記念碑」の説明

とても悲しい歴史です。
今も世界で思想の違いや宗教の違いで戦争が起きています。歴史とは過去を学び未来へつなげる学問だと信じていますが、悲しい歴史が世界各国で繰り返されているのが現実です。

綺羅びやかな上辺だけが目立ってしまう東京ですが、実は悲劇の歴史の積み重ねの上に立っている都市なのかもしれません。高坂甚内を調べているうちに悲しい歴史にたどり着いてしまいました。とにかく殉教した方に合掌。

カトリック浅草教会


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