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お玉が池 ー その1

私の近所に小学校の同級生の親戚が経営していた「お玉湯」なる銭湯があり、よく友達と行った記憶があります。その頃、大人から「昔ここら辺に、大きな池があった」とか「ここは種痘所があり東京大学の前身になった」などの話をよく聞きました。子供の頃は種痘所の何であるかも分からず、「ふ〜ん」という感じで聞いていました。

■「お玉が池跡」標柱
さて、お玉が池(於玉ヶ池)は、現在の東京都千代田区岩本町2丁目5番地の辺りにあった池で、徳川入府前〜江戸初期の古地図では景勝地として現在の不忍池ほどの大きさだったようです。伝承によりますと、江戸期にあった池の近隣の茶屋にいた看板娘の名前「お玉」からとされるといわれています。

■江戸名所図会より
あるとき、人がらも容姿も同じの男二人がお玉に心を通わせ、悩んだ彼女は池に身を投じ、亡骸は池の畔に葬られたそうです。市川真間の手古奈伝説のようですね。当時は「けんかをやめて」にはならなかったようです。

人々が彼女の死を哀れに思い、それまで桜ヶ池と呼ばれていたこの池をお玉が池と呼ぶようになりました。また、お玉稲荷(お玉稲荷)を建立して彼女の霊を慰めたと伝わっています。

お玉稲荷
現在のお玉稲荷

■その後のお玉が池
江戸後期頃から徐々に、神田山を削って埋め立てて宅地化されて、1845年頃には池自体も存在しなくなりました。

埋め立てられたお玉が池周辺には、幕末江戸三大道場の一つ、北辰一刀流の道場「玄武館」があり、千葉周作は「お玉が池の先生」と呼ばれていたそうです。また、近所にには佐久間象山の象山書院、東条一堂の瑶池堂などがあり、儒者、漢学者もたくさん住んでいて、江戸の学問の中心地でもあったようです。私が子供の頃には区立の小学校があり、現在はマンションになってしまいましたが、今でもそこに玄武館跡の碑があります。

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