chapter3-3:剣道部の少女
「私が止める前に出ていっちゃうんだもん、ビックリしたよ」
絵美里は怒りと言うよりは呆れたといった、そんな雰囲気で話す。武道場から部室へと戻ってきた。
「絵美里は知ってたのかよ、女子剣道部が廃部になってるって」
「まぁね、別に剣道に興味はないけど、去年度かなりの部活がなくなったってカメから聞いたでしょ? 女子剣道部って結構強かった印象あったからさ、廃部なんだーって感じだったかな」
「強かった?」
「県大会とかも毎回決勝戦くらいまでは行ってたしね、全国大会出場争いはしていた部活だよ」
そんな強い部活でも学校の裁量で消えてしまうのか……という驚きもあったが、なんにしても女子剣道部からの引き抜きという先輩の狙いは失敗に終わったようだった。そんな先輩はというと一瞬落ち込んだようにも見えたけど、すぐに気持ちを切り替えたのか、いつも通りバイト(&自主トレ)へと出かけていった。
「でも、そんなに強いならなんで廃部になったんだ? 人数不足?」
「本当のところはわからないけど、去年部活動の再整理ってもちろん生徒会からの圧力はあるけど、勝手に潰す権利は会長にだってないから、基本的には自分たちで自主的に廃部届を出すって事になっていたんだよね。だから女子剣道部も自分たちで廃部届を出したはずだよ、出さないってツッパねてたら潰れてはいないはずだもん、実績的にも他の部活と比較して全然悪くないし」
「じゃあ、本人たちに続ける気がなかったって事?」
「どうかな。その辺は関係者に聞いてみないと分からないっていうか……」そこまで言うと絵美里は急に何かを思い出したようにして立ち上がる。
「それ、聞いてみればいいんじゃないかな。ウチのクラスにいるよ、元女子剣道部の長篠さん」
「は……クラスに居るの? 長篠、さん?」
「うん。私もあまり話した事ないけど、長篠さんって長身の女子いるでしょ?」
そんな人いたかな……と、ちょっと考えてみるも、そもそもクラスメイトの名前と顔がまだまったく一致していないレベルで、長身の女子と言われても全然顔が思い出せない。
だけど話をしてみよう、何かに繋がるかもしれないし。
* * * *
朝のホームルームの5分前、遅刻を避けるためか、やや駆け足で教室の扉をくぐる生徒たちの姿があった。オレは校庭側の窓サッシに体を預けるようにしてもたれかかっていた。隣にいた絵美里がシャツの裾を掴んで引っ張る。
「あ、来たよ」
他の人に聞こえない様に、小さな声で伝えられた言葉。視線を扉の方へと向けると、確かに目を引く長身の女子生徒が教室へと入ってきた。男子と並んでもまったく引けをとらない高身長、170cmは間違いなく超えている、180cm近いんじゃないだろうか。光の具合か少し赤みがかって見える肩にかからないくらいのボブヘアに凛とした表情も、その高身長と相まってどことなく中性的な印象を放っている。
「あれが長篠さん?」
「そうだよ、私もほとんど話した事ないし、そもそも普段そんなしゃべってるとこみた事ないかも?」
コミュニケーションが苦手なタイプなのか……そんな事を思いながら、でもとにかく話しかけてみない事には始まらない。まもなく朝礼も始まろうかというギリギリの時間だけど、とにかく声をかけてみよう。オレは両手でサッシを押し出す様にして勢いをつけると、カバンを自身の机に置いたばかりのその長身の女子へと声をかけた。
「あの、長篠さん?」
「ん?」
急に声をかけられたにも関わらず特段驚いた様子もなく、彼女――長篠真心はオレの方へと顔を向けた。
改めて近づくとその威圧感に驚く。目の位置がオレよりも上だ。自分も決して背が低いってわけじゃないんだけど。襟元のリボンはなく着崩す様にボタンも外した状態で、なんとなく規範を守るまじめな生徒という所からは距離のありそうな、そんな第一印象だった。
「あれ、転校生か――ウチになにか用かい?」
「あ、いや……用ってほどの事でもないんだけどさ」
しまった、ちょっと驚いている間になにを言おうとしたのか、用意していた言葉が飛んでしまって、会話が止まる。
「……なに?」
少し怪訝そうな表情で、彼女はこちらの目を見る。
「あ、いや……えっと……長篠、さんって部活、何かしてるのかなって」
オレが言葉を言い終わる頃には、彼女の口元は一文字に閉じられていた。しまった、直球過ぎたか。
「ごめん、変な事聞いたかな?」
「いや、別にいいけどとりあえず長篠さんはやめろよな、長篠でいい」
分かった、という意味で頷くと彼女は続ける。
「で、なんで、そんな事聞くの?」
こうなったら、そのまま直球だ。
「オレ、今部活作ろうとしててさ。それで入ってくれる人探してるんだけど……」
「エアリアルソニックでしょ?」
「知ってるのか?」
「まぁそれくらいはね。結構でかい騒ぎになってたでしょ。ってか、転校生のクセにいきなり変な事してるなーって思っててん」
「変な事って……」
「ハハッ、嫌いじゃないけどさ、そういうハチャメチャな感じ。でもうちは無理かな」
「無理?」
長篠は視線を自身の手元へと向けながら「あのさ」と続ける。
「うん。声をかけてもらって悪いけど、うち部活に入るつもりないから」
「部活に入る気がない?」
「せや。どこの部活でも入る気はないんで。ごめんな」
言い終わると同時に教室にチャイムが響く。鐘の音にさえぎられる様にして、オレと彼女の会話は終了した。
* * * *
放課後に、旧校舎棟に集まるのがなんとなく普通の日常になりつつある、そんな気がする。オレと絵美里は遅れてやってきた姫野先輩にクラスメイトの長篠真心について説明する。姫野先輩は興味深そうに、腰かけた椅子からやや前のめりにこちらへと視線を送っていた。
「その子の写真ってないの?」
「先輩、写真なんて見たいんですか?」
「どんな子かなって思って」
絵美里が端末アーカイブの中から、長篠が映っている写真を見つけて先輩へと見せる。
「……この子が、長篠さん?」
「そうですけど……なにか?」
「ふーん。いや、そっか。そうなんだ、この子がその剣道部の子なんだ」
よほど興味があるのか、姫野先輩は長篠さんの写真をマジマジと見つめる。
「それで神谷野君、彼女なんでダメなんだって?」
「なんでってのは分かんないですけど、なんとなく無理そうな感じでしたよ。完全にシャットダウンって感じだし」
正直会話の内容とかそういうのではなくて、最初から勧誘はシャットダウンというような雰囲気を会話から感じた。絵美里も付け加えるようにして先輩へと話す。
「ちょっと周りに聞いてみたんだけど、長篠さんって女子剣道部でもエース級の強さで運動神経はいいし身長も高いから廃部の後、色んな部活が彼女に勧誘かけにいったんだけど、ことごとく断られたらしいです。実家も道場らしくて、もしかしたら剣道一筋って感じなのかも」
「おおっ!? 実家が道場?」
静かに話を聞いていた先輩が急に大きな声を出すので少し肩が震えた。
「はい、地元の子供達が集まる剣道教室をやっていたり、家族ぐるみでずっとやってるみたいだから」
「へぇー、じゃあ今も剣道やってるのかな?」
「そうじゃないですか。学校終わったらすぐに帰ってるみたいだし、部活はなくなっても家の方で剣道を続けてるんじゃないかな?」
それが理由ならばエースへの勧誘は難しいかもしれない。部活よりも優先している事があるのであれば、そりゃエースになんて時間を割いている場合じゃないかも。
「……でも、だったらなんで剣道部は廃部になったのかな?」
不意に姫野先輩がそんな事を言う。オレと絵美里はその言葉にハッとする。そうか、今も家で剣道を続けるくらいのやる気があるのなら、彼女がいた女子剣道部がなくなった理由っていうのはなんだったんだろう。不祥事でもあったのか。でも絵美里の話から察するにそういう事ではなさそうだったが。
オレは先輩の方へと視線をやる。
こちらの視線に気がついて、姫野先輩はニッと笑うと
「私、興味あるな。その子の事!」
そう言って立ち上がると、カバンを手に取った。
「どこ行くんですか?」
「彼女の家まで。道場なんでしょ?」
「はぁ? なにをしに?」
「決まってるじゃない、部活の勧誘!」
まったく、この人はここまでの話を聞いていなかったのか。
「いきなり行ったって無理ですよ、きっと」
「そんなの分かんないじゃない、女の子は押しに弱いって相場が決まってるしね」
先輩だって女の子だけど、全然押しに弱そうじゃないじゃないじゃないですか。瞬時にそんな事を思ったけれど、それを言うと話が別の方向に行ってしまいそうなのでグッと言葉を飲み込む。
「それにね」
先輩はカバンを手に取ると、扉へと手をかけた。
「私が会ってみたいの、その子にさ」
「だから、なんでいきなりそうなるんですか?」
「いきなりでもいいじゃん、そう思ったんだからさ!」
そういう瞳の輝きが違う、こうなった時の先輩は多分止められない。絵美里もそれが分かったのか、深くため息をついた。
「――はぁ、仕方ないね。翼、連れてってあげなよ。マップナビ使えば大体の場所は分かるでしょ」
「分かるっちゃ分かるけど……絵美里はどうするんだよ」
「私はパス」
「えー?」
「なんか長篠さん苦手なんだよね、雰囲気が暗いっていうか、他人を寄せ付けない感じがあって。それに私がいったところでこれは役に立たないでしょ、そういうのは翼に任せて、私は私のしたい事をするの」
「……なんだよ、したい事って?」
オレの問いかけに絵美里はふふんと鼻を鳴らす。
「そりゃ、3年帰宅部で通すつもりだったのに、エース部に参加するんだもの。私は私のしたい事を実現するの。よってあとは2人でどうぞ」
そう言って絵美里は席を立つと先輩の横をすり抜けて部室を後にした。
「……絵美里なにか怒ってるかな?」
オレはいつもと雰囲気の違う彼女が気になって、扉から廊下の方を見つめる。
「全然、そういう事じゃないと思うよ」
「そうですか?」
「そうそう、じゃあ一緒に行こうか!」
そういうと先輩はすぐに出かける支度をする。
それもあっという間、すぐにオレの方へと無言で視線だけ送って合図した。一緒に来い、って事ですよね。オレは大きく息を吸い込むと、覚悟を決めて部室を後にした。
* * * *
大きく拓けた駅前から道なりに少し南へ歩いたところに境川が流れる。春には多くのしだれ桜で鮮やかに染まる地元の人に人気のサイクリングロードを、先輩はやや駆け足で先を行く。頑張ってその後ろをついていくけどアスファルトからの強すぎる照り返しで体中から汗が噴き出して、同時に行く足も鈍っていく。その様子に気がついた先輩がオレのペースに合わせてくれた事が少しだけプライドを傷つけた。そりゃ選手として日々トレーニングしている彼女の方が明らかに体力があるわけだが、なんとなくそんな風に感じていた。
目的の道場は、そんな境川沿いに鎮座している日本家屋らしい建物だ。木材が前面に主張し、漆喰、瓦とまさに日本人がイメージする日本的建造物そのもので、学校の武道場とは随分と趣が違う。再開発が進むエリアも多い中で、この境川周辺はあまり大きな開発もないままどこか時間が止まったような懐かしい風景が残っていた。
「ここかぁ……」
すす汚れた木製の引き戸を目の前にして、先輩は庇を見上げるようにしながら、スッとその瞳を閉じて大きく深呼吸。
「……よし!」
一際大きな声は自分自身を鼓舞するためのものか、大きく見開いた瞳で彼女はその扉に手をかける。ガラガラという大きな音を立てて、その敷居をまたぐ。玄関には左右に天井近くまで何層にもなる大きな靴箱と、履物を変えるための木製のすのこ、そこから一段上がった先にはあけっぱなしの仕切りを挟んで、板の間の道場が続く。ヤーという威勢のいい声とからっとした竹刀の衝突音が弾ける。人影を感じたのか、手前にいた男性がこちらへと歩み寄ってきた。
「いらっしゃい、どなたさん?」
中年男性らしき単髪の男は、しかし袴の上からもその肉付きの良さが分かる。
「長篠真心さん、こちらにいらっしゃいますか?」
先輩だと何を言いだすかわからないので、オレは慌てて説明する。
「まことちゃん? あぁ、なんだ学校の友達か。おーい、まこっちゃーん!」
勝手に納得してくれて、彼は練習中の道場へと声を投げ込む。それまで竹刀の音が響いていた道場が一瞬静かになり、奥から首元にかけたタオルで汗をぬぐいながらこちらへと歩み寄る人影が1人。シルエットだけなら男性と見間違えるその長身は長篠真心その人だった。
「あれ、神谷野君? なんで?」
よほど意外だったのだろう、オレの顔を見ると長篠のその目は大きな丸になる。
「いや、なんでというか……」
「あなたが長篠さん?」
オレの言葉に被せるように、先輩が一歩前へ、長篠さんは怪訝そうな顔で答える。
「そうですけど、あなたは……?」
「私は3年の姫野。エアリアルソニック部の……なんだっけ、部長じゃないよね?」
言いかけて先輩はオレに問いかける。
「そういえば役職って決まってるんだっけ?」
「そんなのまだ成立してないんだから決まってるわけないじゃないですか?」
「そっか、じゃあどうしよう……えっと、なんだろうね」
こちらのそんなやりとりに、やや呆れ気味に長篠さんはため息をつく。
「神谷野。まさかと思うけどさ、勧誘なら断ったよね?」
「あ、いや……そうなんだけどさ、先輩がどうしても会いたいって言うから」
ちょっとイラついている感じの長篠の視線を避けるように、オレは先輩へと助けを求める。姫野先輩はというと、そんな空気とは無縁とでも言わんばかりにニッといたずらっぽい笑顔を見せていた。
「ねぇ長篠さん! 私と一緒に部活しようよ!」
おいおいマジかよ、さっきの会話聞いてました先輩?
「……あの、先輩。ホンマに悪いんやけど、うちはもう部活をやる気はないんで」
「なんで?」
「なんで、って……そんなん……」
不躾に突っ込んでいく先輩に長篠は声を詰まらせる。しかしさっと言いだせないあたり、長篠側にも何か部活に入る事の出来ない事情でもあるのだろうか。そんな風な事を感じながら、だが先輩は立ち止まることなくさらに一歩踏み出して言う。
「私、あなたと一緒に部活したいんだよね」
「はぁ? 何を言って……別に先輩うちの事全然知らないじゃないですか?」
「別に今は全然知らなくてもいいじゃん、一緒にいればこれから知っていけるわけだし」
「……もう、神谷野! なんなんこの人?」
明らかに苛立ち始めている長篠、その長身から見下ろすような視線が一層威圧感を増していく。
「ちょ……先輩。性急すぎませんか?」
「そうかな?」
ダメだこの人、こういう人だった。相手の気持ちなんてお構いなしで自分の気持ちを最優先に話を進めていく。でも、それで話が進むのなら苦労するわけもなく……逆に長篠の心を閉ざしていく。
「なんて言われても、うちはあんたらと一緒に部活なんてするつもりないから」
《――部活なんて――》
なんだろう、冷たさを感じる言葉を吐いて長篠は道場の中へと戻ろうと背を向ける。
「じゃあさ、勝負しよう」
姫野先輩がその背中に勢いよく声をぶつける。その声に長篠は立ち止まると、半身の状態で振り返った。
「勝負?」
「私と剣で勝負しようよ。それでもし私が勝ったら私たちと一緒に部活やる! どうかな?」
「……失礼やけど、先輩……剣道やったことあるんですか?」
「ううん、ないよ」
眉間にしわがより、明らかに文句を言いたげな様子で長篠はオレをみる。だけど別にオレが言いだしたわけでもなく、この突拍子もない発言でまたもや道場の空気は重たいものへと変化していった。
* * * *
普段とは違うその状況に、道場内はにわかに熱気を帯びていく。板の間の中央部分を避けるように、道場にいた皆が壁側に集まりその様子を見守った。オレは準備を進める先輩に歩み寄る。
「先輩、ホントにやるんですか?」
「もちろんだよ」
制服からTシャツとジャージに着替えた先輩は、だが胴着などは一切来ていない。相対する長篠も袴だけで面や防具を装着してはいなかった。
「長篠も、ホントにいいのか?」
「いいよ。挑まれた勝負を断るんはプライドに関わるんで」
防具のないラフな格好、だが竹刀を手にした長篠は正直容易に近づけない威圧的な雰囲気を漂わせていた。空気がピリついている、彼女自身の苛立ちだろうか。だがそんな空気などみじんも感じていないといった様子で、姫野先輩は左手の具合を確かめるように手首をほぐしている。
「竹刀は道場にある物を好きに使って。一本勝負、とにかく一撃入れた方が勝ちって事でええんかな?」
長篠は軽く剣先を振りながら、先輩に問いかける。
「それでいいよ、私ルールとかよく分からないし」
言いながら、今度は壁に掛けられていた竹刀へと手を伸ばす。左手で一本、そして右手で小太刀を一本手に取った。会場から驚きの声が上がる。二刀? そんなの剣道でありなのか?オレ自身もあまり剣道に関しては詳しくないため、すぐに端末で調べてみるも、ファイの検索によるとルール上は二刀流もありらしい。だけど素人が二刀を使いこなせるものなのか……?
「二刀流?」
「ん? 分かんないけどさ、手数が多い方が有利でしょ?」
「……そう」
「そんな事より、1つ聞いていい?」
先輩の問いに、長篠は無言で視線を送る。
「アナタって本当に剣道が好きなの?」
「は?」
「随分と思いつめたような顔してるけど、楽しくないの?」
「……先輩みたいなのと向き合ってるから今は不快です」
「そう? 何か分かんないけどさ、閉じこもって腐ってるだけにみえるけど?」
先輩の問いかけにもはや長篠は答えなかった。それらに対して微塵の動揺もみせることなく長篠は淡々と試合の準備を進める。胴着なしでの対決だ、当たれば相当痛いはず。だけどそんな事はお構いなしというか、長篠にその剣先が触れる事はあり得ない、そんな自信のようにも見える。対して先輩はというと、単に動きなれたスタイルがいいだけなのだろうけど、果たしてジャージにTシャツというラフな格好だ。それで元剣道部の剣戟に耐えられるのかどうか……先輩は両手の得物の感覚を掴もうとするように右へ左へとその剣先を振う。ブンという空気を切り裂く音には凄みが感じられなくもないが、しかし先輩は素人、いきなり二刀流なんてできるのか?
そんな事をぐるぐると考えている間に、対決の準備が整ってしまった。時間無制限、1本勝負。どちらかの剣先が相手を捉えたら終わり、という剣道とは違う変則ルールは長篠が提示した通りだ。審判は道場にいた中年の男性が行うらしく、旗を手に宣言を始める。
長篠は竹刀をスッと正面、中段に構える。対して先輩はダラリと両手を下ろして竹刀を展開する。それは構えと呼べるようなものではなく、単に自然に剣先を地面に向けている、そんな印象だ。面も付けていないのでその表情がよく分かる。長篠は口を閉じ、鋭い視線を先輩に向ける。先輩はそれをあざ笑うかのようににやけ顔。真剣さがないというか、ただ単にこの瞬間を楽しんでいるというか。そんな2人に道場中の視線が集まっている。
――はじめ!
合図が響く、間髪いれず姫野先輩は勢いよく飛び出す。遅れて大人達の低いざわめきが起こった。感嘆の声だった。
「――速い!」
オレの隣にいた胴着の男性が口を半開きでそんな声を漏らす。初めの一歩、地面をけり上げるようにして飛び出した先輩はその一瞬で長篠との間合いをゼロにした。だが姿勢は限りなく低く、地面を這うつばめの様に、そこから右手で一閃、斜め上に一気に斬り上げる!
バシッー!
竹刀の弾けるような打突音、長篠はその一撃を冷静に受ける――いや、いなした。先輩の一撃は軌道を変え、長篠の鼻先の空を斬った。
マズい、カウンター……!
そう思った瞬間、先輩は切り上げたその勢いを殺すことなく体を半回転させると左手の太刀をもう一度同じ個所へと斬りつける。
バシッ!
再びの一撃を今度は手を十字にする様な形で構えて防ぐ。だが防ぐだけじゃない、長篠は受けとめながらしかし今度はそれを返す様にして一の太刀を振った。その一撃は周囲を震わせながら、空を斬る。先輩はその身体能力をいかんなく発揮、バク宙で一気に後方へと下がり間合いを取った。
予想だにしていなかった展開に徐々に会場のざわめきが大きくなっていく。
「――フゥ」
先輩は1つ大きく息を吐く。そして再びにやりと笑みを浮かべた。長篠の表情は最初のそれとまったく変わらず、無表情のまま微動だにしない。トーン、トーン。先輩はその場でほんの少しジャンプを始める。つま先でトントンとリズムをとるように体を揺らす。そこから今度は少しずつ右へ左へ、やや前方に詰めながら
――ダン!
突然リズムを変えて一気に懐まで詰め寄る。今度はやや左方向からの連撃。
――パパンッ!
軽い炸裂音がリズムよく響く。長篠の剣はそれを軽くいなす様にして弾く。だが先輩の猛打は止まらない。前後の動きに合わせて流れるように次々と手数を増やしていく。その度に道場には渇いた音が響きわたった。両手から次々と気持ちいいほどの猛攻、それを長篠は剣先を合わせるようにしてすべて打ち落として、あるいはいなして弾く。
押し込んでいるのは先輩か――と思った次の瞬間!
ズン!
腕が伸びたようにも感じられる、連打の隙間を針の穴を通すかのようにまっすぐ竹刀が突き出される。刹那、先輩はフッと、上体を反らしながらがくんと体制を落とす。その眼前を剣先が通過した。確実に捉えたと思われたその一撃は先輩の影だけを貫いて終わる。無理な姿勢でそのまま倒れそうになるものの先輩は脅威の脚力で無理やり後ろに蹴りだすと、片手をつきながらくるりとバク転をして再び体制を戻した。
――少し息が上がっていた。
ごくり、とオレはつばを飲む。瞬きをしたらその瞬間に勝負が決まってしまいそうな疾走感がこの対峙にはあった。
「凄いやん、今のをよけるなんて」
試合が始まってから初めて長篠が口を開いた。
「全然手加減してなかったのに。それにさっきからネコみたいな動きで、目で追うのが大変」
「へへっ、ありがとう」
先輩は息を整えつつ言葉を返す。だが余裕はなさそうだ。確かに手数で押し込んでいるようにもみえるが、そのどれもが長篠を捉えるイメージがわかない。長篠自身はほとんどその場を動くことなく、あれだけの打数を捌いているのだからやはり彼女の実力は相当なものだと思う。少なくとも防御に対する才覚は疑いようがない。
――フッ、っと長篠の口元が緩む。笑顔とまではいかないが微笑くらいには言っていいと思う、あの顔の長篠をオレは見た事がなかった。
「――っし!」
先輩は大きな掛け声とともに、気合いを1つ入れ直す。スッと最初と同じ構えかどうか判断の難しいダラリと両腕を下ろして相手に対して半身で立つ。トントンとやはり先ほどと同じようにかかとを離すくらいの小さな跳躍で体を上下に揺らし始めた。
「今度こそ、アナタを捉えるよ」
「――やれるものなら!」
長篠が返すと同時に、再び間合いがゼロになる。この懐へのあり得ない潜り込みこそが先輩の最大の武器、一気に詰まった所からやはり両手の連打を加える。だが、先ほどと同じく簡単に防がれた。だが、それは想定済みと言わんばかりさらに体を入れ替えるようにして、今度はステップで左方向へと回り込むとすかさず右の太刀を振りおろす。頭上から振り下ろされたそれを長篠は竹刀で受けとめる。
バシッ!
竹刀が鳴く、だが音が先ほどまでと比べて小さい。先輩はそれを本気で打ちおろしていない。長篠の表情がにわかに強張る。間髪いれず右から水平に太刀が打ち込まれる。しかし打撃音はない。長篠は一旦後方へとステップし、その一撃をかわしてみせた。だが大きく動いたその隙を先輩は見逃さない。追撃を入れるべく先輩はさらに一歩大きく踏み込む。だが虚をついた、先輩の着地に合わせて、ここしかないというタイミングで長篠の太刀が一閃、水平に凪払う。その太刀筋は鋭く、確実に先輩を捉えたようにみえた。しかし、その一撃の前から姿を消す。明らかに長篠はその姿を一瞬だが見失った。
だが戦いを外側から見ていたオレは見逃さない、極限まで屈みこんだその先輩の頭上を太刀は通過した。
タン!
限界まで屈んだその姿勢から勢いよく地面を蹴りだして、先輩は長篠の右側面――いや、一気に背後へと回りこんだ。長篠の反応が明らかにワンテンポ遅れている、振り向く動作が追いつかない。その一瞬の虚をついて素早く左手を振りおろす。
バシーーーッ!
完全に背面に回り込んで、振り下ろしたその一撃はこの勝負を終わらせると誰もが確信した一撃だった。
だが、長篠はその一撃を目視する事なく、背面に竹刀を回してその一撃をも止めてみせた。そこからの動きはあまりに流麗で、どのように決まったのかは分からない。止めたその竹刀を軸に体を反転させながら横凪に一閃――気が付けば姫野先輩が吹き飛ばされていた。カウンターが決まった形だ。
「しょ、勝負あり!」
「先輩っ!」
勝負がついた――素人らしからぬ猛攻を見せたがやはり最後は経験か。崩れ落ちた先輩へとオレは急いで駆け寄った。
chapter3-3 (終)
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