大津事故会見

 以下の記事がとても参考になります。

大津事故で見えたマスコミのミスと人々の悪意(東洋経済オンライン)
https://toyokeizai.net/articles/-/280873

 ただ、この問題はいささか込み入っている。
 私なりに整理してみました。

(1)この会見で「マスコミ=悪」という構図はどこまで一般的か

 会見を批判するツイートが目立つように私も感じました。
 ただ、仮に100万リツイートされていたとしても、日本の人口の1%以下です。
 そして100万リツイートされたツイートは、たぶん今回の件では存在していない。

 1%というと、学校で喩えると1学年に1人、2人という数です。
 だからといって無視していいというわけではもちろんありません。が、現象は正確に把握すべきです。
 意見を表明していない人があの会見をどうとらえたか、我々は何の判断材料も持ち合わせていません。

 この件に限らず。
 現在のネットは「ユーザーが興味を持ちそうな題材」を表示することに最適化されています。
 報道関連のアカウントを多くフォローしている人のもとには、報道批判のツイートもまた多く届きます。
 自家中毒、夜郎自大になっていないかは常に注意が必要です。

(2)嫌われる覚悟はあるか

 現状で、保育園に何の過失もなかったかと真摯に考えれば、そう言い切れる判断材料もまた存在しません。
 交通事故の当事者としての責任は、おそらくないでしょう。
 ですが、たとえば以下のような観点で訴訟が提起される可能性は皆無であると言い切れるでしょうか。--現場は交通量が多く、なのにガードレールのない歩道だから、事故が起きることは予見できた。園側は損害賠償をすべきだ--。
 道路から車が突っ込んでくることが予見可能な範囲に入るとは私には思えませんが、現時点では判断できません。東日本大震災を巡っては、津波の浸水想定区域外にあった公立学校での被害に対し、校長らによる組織的な事前防災の取り組みがあれば回避できたとして、裁判所が市と県に賠償を命じたケースがあります。

 大津事故では、被害にあった園児の通っていた保育園には園庭がなく、ゆえに園児たちはほぼ毎日のように散歩をしていたそうです。
 園庭のない保育園はたくさんあります。それでも需要に追いつかず、待機児童が出ているのが日本社会の現状です。
 にも関わらず、ガードレールの整備が追いついていない。歩行者が犠牲になる死亡事故の割合が外国より高い。警察庁長官は事故後、「整備を促進したい」と発言しています。では、なぜ歩道よりも車道の整備が優先されるようなことが続いてきたのか?

 知らないことは評価できません。
 保育園がなぜ園児に散歩をさせていたのか尋ねるのは、記者の責務でしょう。
 読者、視聴者に嫌われるからと言って質問をしないなら、記者失格です。
 その姿勢は、権力者の意向を忖度する姿勢と、相通じるものがあると私は思います。

50秒の映像、黒塗りに 五輪熱の裏で広がる自粛の空気
https://www.asahi.com/articles/ASM4Y463YM4YTIPE008.html

 この美術館を、あなたは支持しますか?

 ただ、今回の場合、泣き崩れている園長に質問を重ねる必要があったかどうかは疑問です。
 経営者である理事長が同席していました。

(3)何のために仕事をしているのか

 トランプ氏はなぜ勝ったか。
 「正しさ」はクリントン氏の方が圧倒的に上でした。2016年のアメリカ大統領選。だからメディアも学者も、こぞってクリントン氏当選を予想した。
 でも、「俺たちは見捨てられている」と不遇をかこつ人たちに寄り添っていたのは、トランプ氏でした。

 昨今、フェイクニュースにどう向き合うかがよく論題に上がります。
 ファクトチェックは大事です。読者のリテラシー向上も大事でしょう。
 でも、私はそこが本質ではないと考えています。
 人が最も信頼するのは、自分にとって身近な人の言うことです。
 マスコミと読者の距離が離れすぎてしまっている。そこを改善しないとどうしようもありません。

 ツイートを見ると、あの会見を「記者が園を吊し上げている」という構図でとらえる人が少なくなかったようです。
 感情をあらわにし、あるいは苦渋の表情を浮かべながら懸命に応対する園側と、背中しか見えない記者。
 読者、視聴者がどちらに感情移入し、どちらを身近に感じるかは言うまでもないでしょう。

 私はきっと、会見場にいた記者やカメラマンの多くもまた、いたたまれない気持ちになっていたのではないかと想像します。
 会見に出た記者の1人でも、会見が開かれるに至った経緯を説明し、そこでどんな気持ちを抱いたかを吐露していたら、読者の反応はまた違ったものになっていたかもしれません。
 冷静な客観的記事ではなく、人間としての言葉で、もっと記者がしゃべらなければいけないんです、きっと。

 我々にとって、事実を正確に報じることは、目的ではなく手段です。
 目的は、人の命を救うこと、正直な人がばかを見ないこと、にこにこ笑って暮らせる社会を守ること……ですよね。
 この目的、正しく記事を書くだけで達成できると思い込むのは、もうやめにしましょうよ。
 嫌われる覚悟と同じように、好かれることへの覚悟も必要ではないでしょうか。


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