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【短編】ブルード・パラサイト

 二十三年ぶりに松野雪子を見かけたのが、安いファミリーレストランなんかでなければ、絶対、話しかけたりなんかしなかったと思う。別に高校のときも仲良くなかったし、向こうは覚えていないだろうし、そもそも高校生のときから十キロは太ったし老けたし、不審者と間違えられてもおかしくない。なのに、わたしは、ひさしぶり、とか。なつかしいね、とか。覚えてる、とか。なんか適当なことを言いながら、あ、ごめんわたし、高校で同じクラスだった木村裕美、今は結婚して小島裕美なんだけどね、と、一人で座っている松野雪子の向かい側の席に移動して、親し気に松野雪子に向かって笑いかけた。

 そのときわたしは怒りに燃えていたのだと思う。使命感のようなものにも駆られていた。この間、久しぶりに高校の同級生に会って、同級生の中で一番成功しているのは誰かなんて話題になって、松野雪子の名前が出たのは、起業して社長になって、雑誌に特集されていたからだ。お金をたくさん持っているに違いないのに、こんな安いファミレスでひとりで百円の赤ワインを飲んでいる。そのことが何だかわたしには許せなかった。

 突然現れたわたしに驚きもせず、松野雪子は明らかに、わたしのことを覚えていない薄っぺらい微笑みを浮かべていた。

「何の用?」

 優しくも冷たくもない声だったが、用事がなければ今すぐここを立ち去らなくてはならない、と松野雪子の目が静かに告げていた。その要請に応えるように、わたしの口から信じられないような言葉が出た。

「お金を貸してほしいの」

 最初からそのつもりで話しかけたわけではない、聞かれたから出てきただけだ。わたしは言い訳をしたかったが、松野雪子はこんなことには慣れているといった調子で「いくら? 何に使うの?」と聞いた。

「貸すかどうかは、それを聞いてから決める」

 彼女は、これまでも、それほど親しくない相手から、お金を貸してほしいと言われてきたのだろう。そして、わたしもその一人とみなされたのは、屈辱的だった。

「赤ちゃんが……」

 松野雪子は背もたれに体を預けて、品定めをするようにわたしを見ている。

「どうしても欲しいの。わたしたちの赤ちゃんが。これまでもかなりのお金を使ってきて、でも今あきらめたら一生後悔するから」

 松野雪子は黙っていた。もっと話したかったが、わたしは口をつぐんだ。もしかして、本当に貸してもらえるのではないかという希望も湧いてきた。

「何でみんな、そんなに自分の遺伝子を残したがるんだろう」

 急に松野雪子がくだけた口調になったので、わたしは驚いた。

「血がつながってないと可愛がれないのかな? 猫だって犬だって、血はつながっていないけれど飼えば可愛いのに」

「松野さんも子どもを産んだらわかるよ」

 わたしが言うと、松野雪子は悲しそうにわたしの目を覗きこんだ。

「木村さんは産んでないのに何でわかるの?」

 松野雪子はわたしを憐れんでもさげすんでもいなかった。まるで、病に苦しむ患者に寄り添うナースのようだった。

「わたし、今でも覚えているよ。高校のとき、木村さんが自分のこと大嫌いって話してたのを。他の子の容姿をうらやましがったり、根暗な性格が嫌だって言ってたり、覚えていないかもしれないけれど、わたしに向かって、松野さんみたいな賢い人間に生まれたかったって言ったこともあったよ」

「……言った」

 そうだった。制服を着たわたしは毎日自分を呪っていた。

「今は愛せるようになったんだね」

 わたしは首を振る。わたしはわたしを今でも嫌いだ。それなのに、自分の遺伝子を引き継いだ子を、どうしてわたしはこんなにも望んでいるのだろうか。

「洗脳されているんだよ、世の中の人、みんな。自分と似ているから愛せる人もいるし、自分と似ているから愛せない人もいる。遺伝子と愛は関係ないんじゃないかと私は思ってるんだけどね」

 わたしが呆然としている間に、松野雪子はワインを追加で二杯頼んで、わたしの前にグラスを置いた。そこで提案なんだけど、と、まるで前から用意していたかのように言った。わたしたちは、血のように赤いワインを酌み交わした。そして、わたしは、松野雪子が二十五歳のときに採取して凍結保存した卵子と、その卵子が無事授精し誕生するまでの費用をもらうことを承諾した。

「それって、松野さんに何の得があるの?」

 そんな質問が思いうかんだのは、提案を受け入れた後だった。松野雪子は、悪く思わないでねと断ってから、「ちょっと見てみたかったから」と言った。

「でも、自分の手で育ててまで見てみたいとは思わないんだけどね」

 初めて松野雪子は弱気な顔を見せた。

「私、おかしいかな?」

「おかしいんじゃない? こんな提案を受け入れるわたしもおかしいのかも」

 わたしの言葉に、松野雪子が笑った。笑った顔はとてもあどけなく、可愛らしかった。わたしは松野雪子の遺伝子の入った子どもを、我が子として育てるのが、楽しみになった。

「産まれたら、会いに来てね」

「気が早いよ」

 そう言いながら、松野雪子は嬉しそうだった。わたしも嬉しかった。ずっとのしかかっていた重荷がようやく外れた気がした。

〈了〉

※第6回ブンゲイファイトクラブ(BFC6)の応募作品です。二次通過後、落選しました。読んでいただき、ありがとうございました。

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