第32話 夫婦旅行と青い部屋|2023年5月
果穂のサロンに結季が来るのは久しぶりだった。以前に来たのは、一年以上前だ。その頃、結季はまだ会社員だった。会社辞めてフリーの旅行プランナーとして活躍しはじめてからは、休みが不定期になり、ぎりぎりまで予定が見えないことが多くなった。果穂のサロンも順調に予約が埋まってしまうため、なかなかタイミングが合わなかった。それで、ずいぶん間が空いてしまったのだ。
「寝てもいいよ?」
と、果穂は言った。リフレを受けている結季がめずらしく静かだったからだ。
「もったいないから起きとく」
「眠っても効果はあるのに」
「こんなふうに何も考えずにボーっとするの、久しぶりだから、もっと味わいたい。いつも頭が忙しくて」
「そっか。じゃあ、思う存分ボーっとして」
結季の足を手のひらで包み込みながら、かつて、自分も常に頭が忙しかったなと果穂は思った。リフレクソロジストになる前は、頭の中には言葉が溢れていた。何人もの自分が忙しなくしゃべり続けているようだった。何かを解決するために、いつも自分同士で議論をしていたのだ。
だけど、リフレクソロジストになってから、変わった。リフレをしている間は、頭の中がぴたりと静まりかえる。自分のすべての感覚を、クライアントの足に向けているから、頭の中で騒ぎ立てる余力がなくなるのだ。
「たまには休むの、大事だね」
結季がしみじみと言った。
「そうなんだよ。仕事が楽しいと、休むの忘れちゃうからね。わたしも最近休めるようになったよ」
休むようになってからの方が、良い仕事ができていると果穂は思った。リフレをしていると、果穂はいつも、自分が溶け込んでいって、相手と混じり合っていく感じがする。相手の何かが流れ込んでくると同時に、自分の何かも相手に流れ込んでいるんじゃないだろうか。だとしたら、自分が心地よい状態でいないと相手に嫌なものを送ってしまうのではないだろうか。
結季がもぞもぞと動いた。
「ねえ、ちょっと聞いていい?」
「いいよ」
「あのさ、何のために夫婦になるんだと思う?」
「えっ?」
突然、そんなことを言われて、果穂はぎょっとした。結季は甥っ子の婚約者である。秋には結婚式を挙げることが決まっていて、着々と準備を進めているはずだった。マリッジブルーというやつだろうか。
ちらりと結季の顔を見た果穂は、ほっとした。憂鬱に沈む花嫁というよりは新しいプロジェクトを立ち上げるビジネスマンのような顔をしていたからだ。
「お客さんが夫婦旅行のプランを頼んで来たんだけど、好みが違うから全て別行動にしてほしいって言われたんだよね」
「全部?」
「そう。行く場所も、ごはんも、ホテルも全部。家から東京駅までと、東京駅から家までは一緒なんだけど」
果穂は首を傾げる。それは、夫婦旅行なのだろうか。
「もちろん料金は二倍もらうから、いいんだけど。でも何か引っかかってて。それなら、そもそも夫婦旅行じゃなくてもいいのに」
「確かに」
果穂は何度もうなずく。結季の客はみんな個性的だ。パッケージツアーでは叶えられない願望があるからこそ、個人のプランナーのところにくるのだろう。ここぞとばかりに、ユニークな希望をぶつけてくる。
果穂は自分だったらどうするだろうと想像してみた。今は子どもと三人家族だから、子どもも楽しめる場所が優先になってしまう。けれど、もし夫婦ふたりだけで旅行に出かけるとして、旅行先を思う存分楽しみたいとしたら、ときどき別行動というのはありかもしれない。ただし、全部というのは理解できない。
「別行動だけど、夫婦旅行がしたい気持ちは、ちょっとだけわかる」
と、果穂は言った。
「でも全部じゃなくて、夫婦で一緒にできることが少しでもあった方がいいのにね」
「そう思うでしょ? だから考えてるんだけど、ごはんの好みも違うし、ふたりともそれぞれ会社の経営をしていて、話し始めるとつい仕事の話題になっちゃうらしく、食事とかお酒とかでは気分転換もできないんだって」
「好みが違っていてもよくて、あまりしゃべらなくてもいいアクティビティ……」
果穂が言うと、結季が力強く頷いた。
「そう。何かないかな?」
「リフレはどう?」
果穂の指が結季の足首をぎゅっと掴む。
「あ、いい!」
結季は目を輝かせて果穂の提案に食いついた。
「夫婦同時にできる?」
果穂は潤の顔を思い浮かべて、「助っ人を頼めば」と答えた。二人で同時に施術するなんて初めてだったが、サロンの共有相手である潤となら、出来る気がした。
そこから話は早かった。もともとレンタルサロンを転々としていた潤は、イレギュラーな対応に慣れていて、手際よく準備を進めてくれた。夫婦の要望と予算を聞いて、潤が見つけたレンタルサロンは、まるでリゾート地の別荘のようだった。建物の中に一歩足を踏み入れると、もうそこは東京とは思えなかった。日本ではない別の国に来たようだった。
部屋には施術用のベッドが二台置いてある。青を基調とした落ち着いた部屋だ。潤も初めて来たらしいが、戸棚を開けてカップを取り出したり、フットバスを用意したり、アロマを焚いたりと、てきぱきと準備を進めていく。
「誰かと一緒にリフレするの、初めて」
潤が言った。
「こんなこと言うと変かもしれないけど、リフレしてるときってお客さんとつながった感じがする」
「わかる」
と、果穂は言った。潤が続ける。
「お客さんのエネルギーみたいなのが私の中に入ってきて、私のエネルギーみたいなものがお客さんの中に入っていく。普段は一対一だけど、今日は隣でも同じことが行われていて、四つのエネルギーが混じりあっていくのかなあって思ったら、ワクワクしてる」
果穂は共感して何度も頷いた。理系の夫が聞いたら顔をしかめそうな話だけど、実感としていつもそんなふうに感じているのだから、仕方がない。
エネルギーが入ったり出たりするのは、リフレに限った話ではないかもしれない。人と人が出会って交流するときはいつも、きっと、互いにエネルギーのようなものを出し合っている。それは単純に交換されるのではなく、混じり合って変化して戻ってくる気がする。
リフレに出会う前は、果穂は、そんなふうに誰かと混じり合うことを恐れていた。頑なに自分を変化させないよう、自分の中に誰も入ってこないよう、身も心も固く閉じていた。だけどそれでは、リフレを受けることも施術をすることもできない。一生懸命にリフレを覚える過程で、いつの間にか、誰かと混ざり合うことを怖がらなくなっていた。誰かと混ざり合うと、自分が失われていくような気がしていた。でも、実際は逆だった。混ざり合えば混ざり合うほど、自分が見えてくる。
混ざり方もいろいろだ。仕事を一緒にするだけの相手や、ときどき会っておしゃべりする相手に比べたら、結婚して一緒に暮らして人生を共にする相手の影響は大きい。誰かと結婚するって、大変な決断だ。そう考えると、結婚という行為がますます不思議に思えた。
今日のお客さんのプロフィールが書かれた結季からのメールを眺めながら、果穂はつぶやいた。
「将来の姪っ子に聞かれたんだよね。なんのために夫婦になるんだろって」
すると、潤はさらりと答えた。
「血迷ったからじゃない?」
「えっ?」
「だって、冷静に考えたら面倒くさいことが多すぎて、結婚なんてできるわけないよ」
果穂は、絶句する。そんな身も蓋もない言葉を聞いてしまったら、これから結婚を控えた甥っ子と将来の姪っ子をどう祝えばいいのだろう。
「血迷うの、すごいいいと思うんだよね。人生いっぱい血迷ったもの勝ちだと思う」
「……なにそれ」
聞いたことない人生哲学だ。
「血迷ったら、面倒くさいこと、いっぱい降りかかってくるでしょ? 面倒くさいって生きてるってことと同じだから。血迷えば血迷うほど、たくさん生きることができる。何だか得じゃない?」
「え? 面倒くさい方が得? どういうこと?」
果穂は混乱する。果穂のそんな様子を楽しむように眺めて、潤はにやりと笑った。
「そろそろ来るよ、お客さん」
果穂も慌てて立ち上がる。潤の言うことは、全部は理解できなかったが、「人生いっぱい血迷ったもの勝ち」という言葉は何だか頼もしくて気に入った。今度、甥っ子の幸彦に言ってやろうと果穂は思った。
(つづく)
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