[短編]見えないダンス
――ここから先は選ばれしもののみが聞くことができる、この世の真実です。
物理教師がそう言ったとき、まだ起きて授業を聞いているのは、わたしひとりだった。はあ? と思ったけれど、共感してくれる人は誰もいない。みんな撃沈している。
選ばれしものとなってしまったプレッシャーに、わたしも寝たふりをしようかと思ったが、ばっちり教師と目が合ってしまった。今ではもうその教師の顔も声も思い出せないけれど、その日の話だけは、鮮明に覚えている。
教師は球を書き、その周りに大きく輪を書いた。太陽とその周りをまわる惑星を表す図のように見えたが、よく見る陽子と電子の図ですが、と教師が言ったので、原子の模式図だとわかった。
「一般的には、こんなふうに電子は描かれています。この軌道のどこかに」
言いながら、教師は輪っかの一か所にぐりぐりと丸を書く。塗りつぶす。軌道を回る惑星のような電子。
「でもこれは静止画で見たときの電子です。撮った瞬間だけ確定します。でも次の瞬間にはもう電子がどこにいるのかわかりません。近くにいるとも限りません」
今度は太陽系の隣に点描を打ち始める。その点は集まってドーナツのような形になる。
「このあたりにいる確率が高い、ということはまではわかります」
つまんない、と、わたしは思った。思っただけでなく、ぽきぽきと首を鳴らして、つまんなさを態度で表明した。
(別によくないっすか? 写真撮ったら、どこにいるのかわかるんでしょう?)
と、言おうかと思ったけれど、言わなかった。
教師はわたしをじっと見た。ちょっときもかった。でも、この人はこの人なりに真剣に何かを伝えようとしているんだという気がして、先生の中では若い方だし、よく見ると別に嫌いな顔じゃないし、わたしと先生のふたりだけだし、誰かにからかわれたり変に思われたりすることもないし、と思ったら、急に、ひゅっとふざけた気持ちが消えて、先生の言うことをちゃんと聞いてみようという気になった。
その瞬間を突いて、物理教師は言った。
「僕たちは電子のダンスを決して見ることはできません。運動の軌跡を、次はどこへ行ってどこから表れるのかを、決して知ることはできない。原子を糊のようにくっつけて性質を決める電子を、貯めたり流したりして生活のあらゆるところで利用している電子を、確かにこの世に存在して私たちと相互作用している電子を――」
――それって運命みたいじゃないか?
と、言ったのが物理教師だったのか、あとからわたしが自分で思いついて記憶を捏造してしまったのか、今ではもうわからない。そもそも教室の全員が寝ていてわたしだけが起きていて、くそ真面目な物理教師が、教科書から逸れてそんな話をし始めたという記憶自体があやしい。夢でも見ていたのかもしれないと思うけれど、電子雲のことも量子力学のことも、そのときのわたしは全く知らなかったはずだ。
ともかく言いたいのは、それ以来、わたしはずっと電子を思い浮かべながら、電子のように生きてきたということだ。未来は確率的に分布している。わたしが何かを選択した瞬間、未来の位置がひとつ確定する。が、次の瞬間には、未来は、もうどこにいるかわからなくなっている。
そんな不確定な未来を思い浮かべながらも、動揺しないでいられるのは電子のおかげだ。
ダンスを見ることができなくても、電子は、原子をつなぎ、電流を起こし、磁力を発生させている。今この瞬間にも。
〈了〉
※1時間で書くという【第7回】 私立古賀裕人文学祭 (#古賀コン)に応募するために書いてみた作品です。テーマは「ダンスを御覧ください」。テーマと企画のおかげで、いつもと違うものが書けて楽しかったです。ありがとうございました!