第36話(最終話) 父の足と天国|2024年9月
父の足に触れたのは、何年振りだろうと果穂は思った。硬くて乾いた大きな足だった。ほんのりぬくもりがあって、木の肌のようだ。しかし枯れ木ではない。水を吸い上げている生きた木だ。
リフレクソロジーのセラピストとして何人もの足に触れてきたのに、血を分けたこの世でたったひとりの父の足については、これまできちんと見たことはなかった。
これは、生前葬の一貫だ。「本当に死ぬときは、入院したり介護をされたりするのだから、リアリティを高めるために、果穂に介護ならぬリフレをしてもらうべきだ」と、生前葬を取り仕切る結季が主張したのだ。かなり強引な理屈だったが、果穂も正三も反論せずに従った。結季が何とかしてこの親子の仲を取り持ち、二人の時間を作りだそうとして考えたのがわかったからだ。その想いを無下にすることはできない。
オイルを含んだ手で足を温める。いつも通りにやろうと思いながらも、果穂は少し緊張していた。正三はよく言えば放任主義、悪く言えば子どもの人生にあまり興味がない。勤めていた仕事をやめてリフレクソロジストになったときも何も言われなかった。今でもそのことをどう思っているのか、正三の口から聞いたことがない。もしかしたら、今日この瞬間まで、リフレクソロジーが何かということも知らなかったのではないだろうか。「足だけでいいのか?」と驚いていたのが、その証拠だ。
乾いた足にオイルをなじませていく。いつも女性の足ばかり施術しているから、ずいぶんと大きく感じる。しかし、始めてしまえばいつものように集中できた。正三は眠ってしまったのか、静かだった。眠ったふりをしているのかもしれない。果穂は心をこめて正三の足をほぐしていった。いつか、この足がこの世から消えてなくなってしまうと思うと、闇の中に放り込まれたような不安な気持ちになる。十年後か二十年後かはわからないが、自分が先に死なない限り、その日は必ず訪れる。
「いいな、これ」
ぽつんと正三が言った。うつぶせに寝ているから、くぐもった声だ。
「そう? よかった」
手を止めずに果穂は答える。
「無人島に大勢で流れ着いたりとかさ、天変地異が起こって文明が滅んだりしたときにさ」
「うん」
いったい何の話が始まったのか予想もつかないまま、果穂は相槌を打つ。
「身一つで誰かを喜ばせることができる職業に、俺は憧れているんだ」
「何それ。歌手とかダンサーとか?」
「そうそう。お前のリフレッシュなんとか、とか」
「リフレクソロジーだって」
「そうそう、それだ」
無人島に流れ着いたときのことなんて考えたこともなかったが、確かにイタリア文学の研究者よりは誰かを喜ばせることはできそうだ。
「お前は俺の憧れの仕事に就いたんだな」
正三の声は優しかった。不意打ちを食らって、果穂は動揺する。
「大学教授の方がすごいって」
「すごくても無人島では役に立たん」
「無人島ではもっと他に食料集めや力仕事とか、やることがたくさんあるから、リフレをしてる場合じゃないよ」
我ながらどうでもいいことを言っていると果穂は思ったが、どうでもいいことでも言わなければ泣いてしまいそうだった。
「果穂にリフレをされながら、あっちに行けたらいいなあ」
「それってわたしが引導渡したみたいで嫌なんだけど」
「娘に引導渡されるなら本望だ」
「わたしが嫌だよ」
正三が笑った。笑うと足に力が入って果穂の手を少しだけ跳ね返す。そのとき果穂は正三を送り出すときのことを初めて想像できた。本当にリフレをすることはできなくても、リフレをしているときと同じ心で送り出せたらいいなと果穂は思った。
◇
天野正三の生前葬は、本物の葬式とは似ても似つかぬイベントになった。本物の葬式のようにしたいと言い張ったのは正三なのに、本物の葬式の詳細を知るうちに「退屈でかなわん」と言い出したのだ。家族たちは唖然としたが、結季だけは違った。正三の気が変わるのは計画に織り込み済みだった。動揺することなく、いそいそと用意していたプランBを実行しはじめた。むしろ、本物の葬式の退屈さを強調して説明したのは結季の策略で、プランBに正三を誘導したのではないかと幸彦は疑っている。なかなか怖い配偶者だ。
来場者は正三と写った写真をプリントアウトして、名札代わりに首からぶら下げて歩いているから、正三との関係が一目瞭然だ。会場の巨大なスクリーンには正三の思い出写真と説明が映し出されて勝手に流れている。会場はビュッフェスタイルの立食パーティーで、来場者たちは正三の知己という共通点もあって、初対面でもすぐに打ち解けている。唯一葬式っぽいところといえば、正三が白い着物に三角巾という死装束でうろうろしていることだ。
幸彦は会場の様子を動画で撮ったり、来た人にインタビューしたりと、大忙しだった。というのも、天野正三が生前葬について語る書き下ろし本のゴーストライターを任されたからだ。せっかくだから生前葬の準備や実際の様子や死生観などを本にしたらどうか、と職場で提案してみたらあっさり通ってしまった。正三もあっさり承諾した。だが、自分は書きたくないし、プロのライターを入れるとわがままを言えないから嫌だ、幸彦が書くならいい、という条件付きだ。つまり、自分の孫なら思う存分わがままを言えると思っているわけだ。ろくなオファーではない。しかし、印税を全部あげるからと言われ、臨時収入に目がくらんで引き受けた。
正三にもインタビューをしたいが、いろいろな人につかまって声をかける暇もない。みんな正三に会いに来たのだから当然といえば当然だ。今年で七十八歳になる正三は、幸彦の二倍以上の時間を生きている。その分、出会ってきた人も多いのだろう。
「長く生きるということは、たくさんの人に出会うということなんだな」
幸彦の口から独り言がこぼれでた。
「そうかも」
果穂の声だ。幸彦が誰かとちょっと話したいと思ったタイミングで、ちょうどよく隣にいるのは、やっぱり果穂だった。
これから先、年月を積み重ねて生きていけば新しい人にたくさん出会う。それだけではない。今まで出会った人たちとの時間も積み上がっていくのだと思うと、幸彦は何だか途方もないくらくらした気持ちになった。
「なんか増殖って感じ」
と、幸彦は言った。
「何が増殖するの?」
「うーん、心かな」
苦しまぎれの答えだったが、「幸ちゃん、いいこと言うねえ」と果穂はしきりに感心している。ふたりは黙って会場を眺めた。増殖した正三の心で溢れかえっている。正三の遺伝子を引き継いだのは自分たちだが、心はこんなにも増えている。正三の教え子たちや本の読者のことを考えると、もっともっといるのだろう。
肩を叩かれて振り返ると、結季が立っていた。手にマイクを持っている。
「それではここで、正三さんの孫の幸彦くんからひとこと」
目の前にマイクが突き出され、思わず受け取ってしまった幸彦は慌てた。自分がしゃべるなんて思ってもいなかった。何も用意していない。だが、マイクを受け取ってしまったので何か言わざるを得ない。
「このたびは祖父のためにお集まりいただき、ありがとうございました。孫の幸彦です。出版社で編集者をしています。今度うちの会社から、祖父の『生前葬のすすめ』という本を出す予定です。出たら買ってください」
拍手と笑いが起こったが、人の生前葬で宣伝だけして終わるというのもいかがなものか。もっと気の利いたことを言わねば……と幸彦が焦っていると、「俺は生前葬はおすすめしない」という正三のでかい声が飛んできた。
「企画会議をもう通ってるのに、困るよ、じーちゃん」
幸彦は動揺して、思わず孫モードになってしまう。
「もうこりごりだ。思い出とか振り返るもんじゃないな。過去を振り返るのは未来に活かすためだろう? もう老い先短いんだから、過去は忘れて、前だけ見て突き進んで、死んだらそのときだ。無責任に全部投げ出して死んだらいいんだ!」
日頃あまり社交的じゃない正三には、いっぺんにあちこちに愛想をふりまく今日が、よほど堪えたようだ。
「じゃあ、未来に活かせる時期にやるならあり?」
ここで企画をぽしゃらせるわけにはいかない幸彦は、マイク越しに正三に食い下がる。
「そうだな。六十代……いや五十代のときにやったらいいんじゃないか?」
(よし、いただき)
幸彦は結季にマイクを返して急いで思いついたタイトルをスマホにメモをする。
「未来を生きるための終活 五十代から始める生前葬」
マイクを持った結季が、幸彦のメモを読みあげた。
「売れなさそう」
果穂が言った。
「いや、これ、いけるぞ」
カメラをぶら下げた室田が言った。
「いっそ三十代にしたらどうだろ?」
結季が言った。それに乗じて、周りのみんなが好き勝手なことを言い始めた。あちこちで笑い声が起こる。
増殖した祖父の心たちに囲まれた会場は優しく美しかった。天国というものがあるのなら、こんな場所なんじゃないかなと幸彦は思った。
(終わり)
※11年間にわたる連載はこれで終わりです。ご愛読、本当にありがとうございました。またときどき思い出したら、果穂や幸彦たちに会いにきてください。
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