
「No No Girls」が教えてくれたこと
昨夜は、京都新聞の連載原稿を提出し終わって一息ついたので、ずっと、ちゃんみなさんのオーディション番組「No No Girls」をYouTubeで見ていた。何度も泣かされながらエピソード6まで一気見した。
ちゃんみなという名前は知っていたけれど、どんな歌をうたうのか、どんな人なのかも知らないまま。「若い子に流行ってる方なんでしょう。わたしにはきっと合わないだろう」と思ってたのだけど、クローズアップ現代の特集を見て、容姿や出自の差別に対して怒りを込めて歌う歌の強さや、本人の考えや言葉に衝撃を受けて、そのちゃんみなさんがプロデューサーを務めるオーディション番組「No No GIrls」がYouTubeでも無料で見れることを知って、見始めたらまんまとドハマリした。
わたしのイメージするオーディション番組は、実力だけでなく容姿も端麗な人達が集まる場。だけど「身長、体重、年齢はいりません。ただ、あなたの声と人生を見せてください。」という応募メッセージのもと集まって、最終まで残った人たちの見た目は多様で、いわゆる細身で整った顔で足が長くてモデルのような人ばかりではない。でもそういう容姿である必要性は全然感じない。歌もダンスもすごい才能の持ち主ばかりで、努力も熱意も生き様もかっこいい。若くて可能性もたくさんある。
彼女たちは舞台で内側からあふれ出るまばゆい光を放つ。ひとときもパフォーマンスから目が離せない。伝わって、という切実な願いが届いてくる。美しいと心から思う。
「美人」じゃなくても魅力的だと思った。そして見ているうちに、そもそも美人って何だっけ? と疑問に思えてきた。顔が小さくて目が大きくて鼻筋が通っていてバランスがよくて細くて足が長くて…という人はもちろん美人だけど、それに当てはまらなかったら美人じゃないのだろうか。違う気がする。どんな人を美しいと思うか、魅力的だと思うかは、ひとりひとり違うはずだ。わたしの「美しい」はわたしが決めればいいのに。
わたしは今45歳。昭和の終わりから平成の始まりに思春期を過ごしたことになる。ずっと女性の容姿をブスだデブだオバサンだとジャッジするのが当たり前の世の中を生きてきた。自分が他人にジャッジされないように恐れながら、他人のことは心の中でジャッジしてきた。そんな世の中が変わろうとしている。変えようとしている人たちがいる。
「No」って言うのは怖いけれど、Noって言うことで、こんなにたくさんの人が勇気づけられるのかと驚いた。ちゃんみなさんがNoを突きつけて、それに賛同した才能のある人たちが集まって、その生き様を番組越しに見た人たちも勇気づけられる。革命は、こんなふうに始まるのかもしれないと思った。YouTubeを見ながら泣いてしまったのは、そんな革命の場に立ち会えた感動からだったかもしれない。
番組の中でちゃんみなさんは「自分の殻を破れ」ということを何度も言う。彼女の言葉は、小説家としてくすぶっているわたしの心にも突き刺さる。どうしたら殻を破れるのだろうと半日考えてみた。いつもと違ったことをしてみたらいいのか。一人旅に出てみようか。全然違う習い事を初めてみようか…などなど、いろいろ考えた挙句出た結論は「まずは小説を書け」だった。
No No Girls で審査に勝ち残った人たちは、才能があって、さらにものすごい努力をしている。そのうえでさらに「殻を破れ」と言われているのだ。わたしはそのスタート地点にもついていない。破る前に、殻も見えていない。まずは書いて書いて書きまくって、自分の「殻」に突き当たって窮屈になるまでがんばるのが先なのかなと思ったりした。
残りのエピソードは仕事を終わらせてから見るぞ…。