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魚梁瀬-台湾林業日記-5-台湾檜は旅をする

日本人が開拓した太平山に堂々と生きていた台湾檜の大木たち。その巨大な姿の群れを見つけた時、木を伐り、木を加工し木を育て木とともに生きてきた日本人たちはどれだけ胸を高鳴らせたことでしょう。

そして自らの欲望のままに、何百年も培ってきた「木を手懐ける技術」を駆使して台湾檜をとってとって自国へと送り続けました。

台湾檜は日本へ渡り、どんな姿へなっていったのでしょう?用材となった台湾檜はどれほど立派な姿なのでしょう?一応は木工作家の私はやっぱり気になるところでありました。

宜蘭の知り合いが「本物の台湾檜を見せてもらえるところがある」と、とある材木屋に連れて行ってくれました。

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店内は材木屋というか、天板のショールーム。いきなり巨大な平たい板が出迎えてくれます。もしかして、これが...これが台湾檜!?

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信じられない大きさです。この厚みでこの幅、この長さ。こんなサイズの用材、わたし、見たことないです。そして樹齢は驚愕の2000年。保護されている樹木でこの数字は見たことあっても、材料として売られているもので樹齢2000年のもの(しかもこのサイズ)をお目にかかれるとは思いませんでした。

台湾檜の大いなる姿に口を開けていたところ、この店の主人である材木商の許さんがいろいろ教えてくれました。彼は、日本に渡ってしまった台湾檜を探し出して台湾に買い戻しているんだそうです。人間に翻弄される壮大な台湾檜の旅。物言わぬ樹木材木ですが、そこにはいろいろなドラマがありました。

彼は、戦争で焼けた首里城が1992年に再建開始された際に使われたのは台湾檜だということを教えてくれました。かつて国内産の檜が不足していた頃台湾檜が良材であるため重宝され日本の寺社仏閣に使われていたことは知っていましたが、首里城も台湾檜の力を借りていたのです。そして、内部の彫刻を手掛けたのは台湾人の職人集団で、彼もその中の1人だったことも教えてくれました。

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▲許さんが持っていた首里城再建のアルバムの中の一場面

こうした台湾の彫刻技術は日本統治時代に日本の林業とともに入ってきたもので、日本の寺社のものだけに特化しているため彼らは台湾の寺社建築の彫刻はできないそうです。

林業という概念が存在しない台湾の森で大きく大きく育った天然檜。木と共に生きて技術を育ててきた日本人が持ち込んだ伐採と加工の技術によって取り尽くされることになります。しかしそうして伐採した一部は戦争をも耐え忍び生きながらえ、日本から渡った技術を引き継いだ台湾の職人によって美しい首里城へと生まれ変わったのでした。

この材木店を訪れたのが2019年4月。同年10月に首里城が焼失したニュースに大きなショックを受けました。樹木として生きていた時間と同じくらいの時間を首里城として生きるはずだった台湾檜。それを加工した台湾と日本の職人。そして首里城再建のプロジェクトを進めるべく1992年から2019年まで奔走した多くの人たち。思い虚しく一晩で首里城は姿を消したのです。

それでも人々の強い思いは、首里城再建を押し進めます。

首里城は2026年の完成を目標に復興が始まっているようです。

建材は主に国産檜と沖縄のイヌマキなどを使う予定だが、台湾檜も調達可能かどうか検討しているそうです。
果たしてその調達はどのように行われるのでしょう。超気になります。

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