074 社会は鏡
社会は個人を写す鏡である。
安定した社会には、安定した個人がいる。
成長する社会には、成長する個人がいる。
難問を抱える社会には、難問を抱える個人がいる。
その社会は自分と自分以外の他人で出来ている。
社会(他人)の役に立ちたい。
社会(他人)に必要とさせる人になりたい。
他人(社会)によく思われたい。
いっそのこと他人(社会)になりたいと思う。
他人に好かれたいと思うのはなぜか。
他人に好かれていないからであろうか。
そのように断言できるほどに他人の気持ちを確実に確認できることは可能なのか。
自分自身の気持ちですら不確実なのに他人のそれを確認できるはずはない。
普通に考えれば、自分で自身を好いていないだけである。
自分で自身を好いていれば、他人をそうするはずだと考えるからである。
他人を通して見えるのは、自分自身なのである。
では、他人(社会)を主に考えるのはなぜか。
自身の人生なのに主人公になれないのはなぜか。
自身で自分を認めていない状況にあるということである。
自身で自分を受け入れていないのである。
そもそも限度無く稼ぎたいと思うのはなぜか。
限度無く社会の役に立ちたいと思うのはなぜか。
普段の仕事が社会の役に立っていないということか。
どんな仕事であれ、社会の役に立っていないはずはない。
ただ社会の役に立っているという実感がないのである。
それは、当たり前である。
社会とは不特定多数の人間が不特定多数になって支え合う仕組みである。
社会に貢献するほど得られるのは、不特定多数の人間としての自分という実感である。
不特定多数の一人という実感ほど自分を馬鹿にすることはない。
自身にとっては、自分は一人でしかないのだから。
社会貢献するほどに虚しくなるという仕組みなのである。
だから休日に自己貢献することを欲するのである。
不特定多数の個人はいろいろ比較して社会や他人に要求することがある。
社会に要求を上げる個人は必要以上に社会に貢献しているのである。
だから必要以上に見返りを求めるのである。
それで帳尻を合わせようとするのである。
ただ弱者として存在しているだけ要求を上げられるのはなぜか。
それはすでに強者に必要以上の優越感を与えてしまっている貢献があるのである。
劣等感をそれとなく感じさせることによって弱者に仕立てるのである。
人間は人間の優劣を何を根拠に決められるのだろうか。
そもそも貢献されることを社会や不特定多数の他人は要求しているのだろうか。
個人の側の勝手な思い込みではないのか。
換言すれば、たんなるおせっかいでしかない、のではないか。
そんなことは、言われるまでもなく皆、感づいているのではないか。
いくら社会の役に立つ人間になっても、自分に役立たねば悲しい。
いくら社会に必要にされる人間になったとしても、自分に必要とされねば侘しい。
いくら社会によく思われても、自分がよく思わなければをかしい。
社会は迎合する人間を欲しない。
人間と全く同じなのである。
社会や他人は自分自身を写す鏡である。
鏡は左右が逆に映る。
だからわかりづらくなる。
いっそのこと「社会」や「他人」を「自分」とすればいい。
社会が自分、自分が社会。
主従が逆転し、隠れていた自分が前面に出てくる。
社会や他人に役に立ちたいと思っているのは、社会や他人ではなくて自分自身となる。
(現実の)自身は(認識の)自分に役立ちたいとなる。
人の為の善と書いて、偽善と読む。
偽善とは悪のことである。
自分をなくし、世のため、人のためはありえない。
だれも霞だけを食べて生きていけない。
だれもが夫婦・家族・友人・会社・国家・世界までのすべての社会に貢献している。
その社会貢献とはすべて自己支援にほかならない。
その社会に自分が存在するからである。
それはただ社会のためでなく、ただ自分の保身のためなのである。
悲しくも己のすべての行為は、すべて己のためである。
それをあえて「あなたのため」というと偽善になってしまう。
「そんなの自分のためにしているだけ」そういうのがすこし前の常識であった。
いや、以前の常識ではそんなアピールすることすら、よしとしていなかった。
偽善の逆、偽悪は善である。
偽善と承知しつつ悪態をついて行う偽善は、偽悪のようになる。
自分に対する悪口は、内容の是非は別として、すべて善意からである。
悪く思う以前に、自分と同じ人間であろうという同化(愛)の思想があるからである。
慈善行為などの偽善も悪態をついてやれば、偽善が偽悪になり、善にみえる。
偽善をやりたくば、悪態をつけばいいのである。
これで善悪をなくす(止揚する)ことが出来る。
そこに魂をくすぐる粋ってものがある。
なのに他人や社会と積極的に交じわろうとする。
自身が発する疑問は潜在化・深刻化する一方である。
疑問の回答は疑問の外にある。
最後まで、自分自身の発する疑問を誤魔化しきれるつわものは何人もいない。
個人の社会依存度を減らせば、なくなりはしないがすべての社会問題は軽減していく。
社会問題の対処療法への貢献は、社会問題を深刻化させるだけである。
まずは個人でどうにかできるところまでに社会問題を矮小化しなければ解決はしない。
社会問題はかわいげがなくては、かわいくない。
すべての社会問題は個人の頭と心と体の構えにある。
構えた時にそれが問題となる。
何に対峙するかは個人の自由である。
その対峙したもので自分が決まる。
対峙したものごとがいくつかある自分の分身の一つである。