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066 問題対峙で問題退治

日々色々な問題が発生する。
それらは心を騒がす、厄介なことである。
問題ばかりが周りにあっては、仕様がないから何とか解決する。
それでも問題は一向に減らず、どちらかといえば増えていくようである。

極小の問題は、すぐ解決される。
それを問題と見なすまでもなく。
すごく小さいからである。
気づく前に簡単に解決してしまっている。

小さい問題も解決される。
少し考えれば、解決策が出るからである。
実行が比較的容易でもある。
解決して、効力感を得る。

中ぐらいの問題は、ひとまずおいておかれる。
冷静に対処しないと、手戻りが発生し、厄介になるからである。
その問題の深刻さが心を悩ませる。
頭を使って、原因を考え、なんとか解決策を探る。
面倒でも、解決策が出れば、何度も嫌な思いをするのが嫌なのでやる。
試行錯誤して、解決の方へ近づいていく。

大きな問題は、まず解決困難だと思う。
まともに対峙していては、到底身が持たない。
大きいとは自分に対してである。
色々なところに影響が出る。
ひとまず、他人事にしておく。
なにかの機会に協力することで解決の方向に乗ろうとする。

極大きな問題は、そんなものは問題としない。
それは、全く問題に感じない。
自分でもそれが正当だと考えているし、皆がしているからである。
それにそれを問題にすると自分の立場がなくなってしまうからでもある。
愚問と言われる問いである。

いわゆる切れ者は、問題の正面には立たない。
一つの問題に時間を費やしていては、次々に発生する問題に対処できない。
襲い掛かる問題に、すこし斜に構え、問題が自身に衝突する直前に少しだけ交わす。
そして、問題の側面からすっと核心を取り、悪い部分を変えてまたすぐ戻すのである。
しかし、仮に社会の全員がそんな人になっても、問題は減らないのである。

それは、どの問題も、よくよくみれば問題ではないからである。
それで仕様が無いないとか致し方ないこととすれば、すべての問題はなくなってしまう。
大きな視点に立てば、問題でなくなってしまうことばかりである。
それに、関係ないとすれば、問題でなくなってしまうのである。
そんな、なんでもないことを問題としているのである。
問題とは、それを問題視したいという願望なのである。

問題を問題と見立てている根拠は、結局は立場に還元される。
それぞれの立場という枠(条件)の中での問いの立て方である。
なんらかの立場の正当性確保の問題なのである。
同じ立場いるかぎり、同種の問題は起こり、問題は減らない。

問題の問題とは立場なのである。
自身の立場を変えないで抜本的に問題を解決するのは不可能である。
知らずともおこなう対処療法とは立場を維持するための時間稼ぎなのである。
条件(枠)を変えないのだから、暫くしたら再び問題は発生するのである。
そして、問題はいずれ対処療法に対抗する力をつけ、深刻化して再発してしまうのである。

そうして問題を育てるのは、退屈しのぎには丁度いい。
平凡な人生に起伏をつけるのにも丁度いい。
ただ、あまり育ててしまうと扱いに手を焼くことになる。
それに問題を自分の上においておくのは気分が悪い。

抜本的解決とは、自身が大切に築き上げた自分の立場を疑うことである。
問題視を持っているのは、すでに自分の立場はすこし変では無いかと感じているのである。
その自分に素直に従い、徐々に自身で仮面(人格)を外していくのである。
それを外したところに本当の自分がかくれんぼしているのである。
案外簡単なところに隠れているから、嫌になっちゃうのである。

大事にするものを決め、育てるのが第一章である。
第二章はそれを自然に見えるように意図的に崩すところにあるのである。
退屈などという構えができるのは、第二章を知らないのである。
人生の醍醐味をしらないからいえる台詞なのである。

人生の第二章は「あはれ」(悲しくも立派なこと)なことである。
また、「をかし」(変であり立派なこと)なことでもある。
それを知らずして、人生を終えるのをもったいないというのである。
「もったいなし」とは、不都合であり、恐れ多いことなのである。

精神の成長にはなんらかの自己否定が含まれる。
それは成長とは変化の一つであり、変化はそれまでのものの否定だからである。
だからといって過去の自身を全否定するのではない。
そんなことを現在の自身が勝手にしていいものでもない。
ただ簡単に肯定的に価値を見出していた部分がある。
それとほぼ同じ程度、否定的な価値を併せ持っていると知るだけである。

問題の醍醐味は極大きな問題こそにある。
その極大きな問題と対峙してこそ、全ての問題を退治できる方向にいけるのである。
そういった大きなものを相手にすれば、次第に自分という格が満足するのである。
それなのに、小さく抑え込もうとすると自分は腐るのである。

ただ極大きな問題はそのまま見ていては解けない。
よくよく見ていけば、極小さな問題に近似するのである。
その問題が残念ながら他人ごとではないのを自分は知っているのである。
そこがおもしろいのである。

すべての問題は、通じている。
すべての問題は、自分を通じて繋がっているのである。
すべての問題は、自分の立場にある。
問題は既に回答となってしまう。

人は自分に解決できることしか問題にできない。
解決不能なことは問題に思えないのである。
問題に思うのであれば、解決できるのである。
だから、ほとんどの問題は解決できてしまうのである。

難しい問題を解くのはおもしろいことである。
問題から開放されるからである。
自由観の獲得でもある。
新たな問題の存在を感じるまでのわずかばかり間である。

問題を解くのにはそれ相応の時間を掛ける必要がある。
だから途中で人生を終える可能性もある。
それでも、解決に近づいていればいいのである。
気分よく過ごせ、気分よく終えられるのである。

問いを学ぶことが学問である。
何を問題にするか、何に対峙するか、何を退治するかが、学問である。
あれを問題にしろというのも、それに答えるのも、学問ではない。
だから基本的には学問はだれも教育できないのである。

学問はその存在が平等なのである。
どの問題を問題としてもいいのである。
学問は当人がひそかに学び取るものである。
あたかも自分はすでに知っていたかのように。

それが尊厳にもとづく悟性なのである。
すすめられて、するものでも、できるものでもない。
そんなことは、少し前の常識である。


#小さなカタストロフィ
#microcatastrophe

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