012 評価不要のことわり
時々なんだかんだと考え込んでしまうことがある。
その考え込むのに言葉を使っている。
その言葉の中で、なんだか意味不明なものがある。
その時、あらためていくつか辞書を引いて調べてみる。
辞書により色々な見解が書いてある。
時々なるほどと思うことが書いてあることがある。
自分の欲する意味があったときはうれしくなる。
そんな気分を味わいたく、ついつい、いろいろな辞書を集めてしまう。
辞書を引くのは、もちろん自分が納得するためである。
それは考えるのに都合のいい意味を選り好みするためである。
しかし、それでも都合のいい意味がない場合がある。
そうすると仕方ないので勝手に意味を付けたり、言葉を作ってしまう。
言葉は生き物のように変化している。
だから辞書は時々改訂され、載せている言葉の意味を変化させている。
色々な版の辞書を開くのが楽しいのは、言葉の意味の変化を知れるからである。
それは常識の変化を知ることでもある。
そんなこともあって、言葉について色々書いてある。
しかし、残念ながら使っている言葉にあまり意味はないのである。
そんな言葉を繋いだ文にもあまり意味はないのである。
ましてや、そんな文をつないだ文章にもあまり意味はないのである。
いくつかもっともらしいことが書いてある。
しかし、書いてあることの根拠の根拠はないのである。
それに根拠が違っていても訂正する気もない。
しても、しなくても同じであり、多少の間違えは愛嬌なのである。
できることなら伝えてみたいのは、それらの逆にあることである。
言葉と言葉の間、文と文の間、文章と文章の間であり、関係性である。
もう一つは、飄々(ひょうひょう)とした全体の雰囲気である。
文になっていれば、そこには、ただの洒落が書いてあるだけなのである。
ほとんど言いたいことが書いてないのだから、解釈自由となる。
そんなものを正確に評価するのは不可能である。
だから最初にことわらなければならないことがある。
それは「本書に関して、評価不要で願いたい」ということである。
評価とは、上の立場にたって、全体を見渡してする行為である。
だからされる側からみれば、頭上から見られている気がするのである。
残念ながら本文の内容からそんな侮辱は受けられないのである。
すべてとただ対等でありたいと考えているからである。
また評価が成り立つのは、方向を持つ同じ人間という前提がある。
だから基本的に、同じ方向にあれば「よし」となり、違うとなれば「あし」となる。
本書では常識の逆のことが書いてあるのだから、ほとんど「あし」の評価になる。
そんな、だれもが、わかりきったことは勘弁願いたいのである。
何はともあれ、この段階での評価を受け入れる度量を持ち合わせていないのである。
くどくて恐縮だが今一度示しておかなければならないことがある。
それは「本書に関して、評価不要で願いたい」ということである。
その本意は、本書の内容について、他の人と話し合ってほしくない、ということにある。
それは、他の人と話し合うことで、わだかまりのエネルギーを発散してしまうからである。
エネルギーが発散されれば、その原因が解決したと錯覚を起こすからである。
何か引っかかるところがあれば、自分の中で、ゆっくり考えてみてほしいのである。
そこにこそ貴重な時間を割いてまでする読書の醍醐味があると考えているからである。
また、どんな酷評も賞賛に、どんな賞賛も酷評に聞こえてしまうのである。
それに、なにより評価が成り立つ愛情こそが疎(うと)ましいのである。
生まれも育ちも違うのに、そこまで同一視されたくないのである。
人により立場が違い、ものさしも違うのである。
「あなたはあなた、私は私」なのである。
だから本以上に、親密にも疎遠にもされたくないのある。
適当な距離(間)を置いておきたいのである。
それが人と間をもつ人間だからである。
それでもなお、ああだ、こうだと評価しなければ気が治まらないかもしれない。
そうであれば、それは個人の自由、ご勝手にとなる。
好きなように評価して頂いて結構である。
そのすべての評価を受ける覚悟は出来ている。
ここまでいってもされる評価について、何一つ反論できないことを承知している。
また真の評価は、世の中の常識の変化を注視することでしか得られないとも心得ている。