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人にも物にも概念にも、それぞれに歴史があり、否定できない。
過去の否定は無駄なことに近似する。
過去のすぐ上に立つ現在についても同じである。
しかし、選択可能な未来については別である。
だからいろいろ面倒である。
人にはそれぞれ経緯や置かれた状況、立場の違いが大きくある。
だからすべての人に同じことを言えるはずもない。
しかし、時代や地域に関係なく、すべてに共通することがある。
それは「存在してしまった」という事実である。
その実存を存在価値とか魂とか命とか霊格とか尊厳とか有難みと言うのである。
人は時により表層において、教えられ、助けられ、救われることを望む。
しかし、深層においては、教えられ、助けられ、救われることを望まない。
深層はなんの助けも借りず、「ただ存在することだけ」を欲しているからである。
根源的には人が人に教えることも、助けることも、救うこともできないのである。
人は、自ら学習することを望んでも、外から教育されることを望まない。
すべては、当人の動機にあり、意の中にある。
だから何かを教えようとする、そんなお節介な意図はない。
それに、いくら巧みに言葉を並べても決して深層に達することはない。
ただ、できることなら表層の一部と深層の一部を繋げたいだけである。
また、書くということは、頭の中身をさらすことである。
それは体や心や顔をさらすよりも本来は恥ずべきこと、ということを一応感知している。
そして、それは同時に、体や心や顔をさらすよりも、官能的でもある。
ただ、読書の醍醐味とは、そういうものを心ではなく、頭で感じることにある。
すべての社会問題の解答は、個人の自主独立というあまりにも当たり前のことである。
それゆえ多くの人が自覚しているのではないか、という疑いもある。
また文章としては芸がなく、あまりおかしくないというおそれも感じている。
しかし、おかしくないところに、本当のをかしさはあるのである。
大袈裟に言えば、有史以来、人は色々に考え、社会問題を作っているのである。
社会の発展や進歩に恐怖のイメージをつけて楽しんでいるのである。
その楽しみを終焉させる方向にあるのが本書の内容である。
「ああ、いっちゃった」と世界を白けさせてしまうのではという危惧をしている。
現代といえば「地球にやさしく」が共感を得ている。
人間が地球につらい存在だと自覚するようになってしまっているのである。
でも、太陽が燃え尽きるまでは、まだ結構時間が残っているのである。
なにも、そんなに急いですべての始末をつける必要はないのである。
それに地球自体は、表層がどうなっても構わないのである。
地球は無生物であるし、やさしさなど欲していないのである。
なのに勝手に人が地球に憐みをかけているのである。
そろそろ本当に、本当のやさしさを欲しているのは誰かを考え時なのである。
ただいつの間にか調子に乗って、いろいろとお店を広げてしまっただけなのである。
そろそろ半分を徐々に店じまいしようと思っていたところである。
その出来た時間で本来しなければならないことを今しようとしていたところである。
そこを指摘されたら、された方はたまらない。
だから、最初にお詫びをいっておく。
ただ、なるべくゆっくり、無理を無くさなければゴールにたどり着かない。
無理では、拠り所がなく、長続きできない。
無理を有理にするための理が必要なのである。
その詭弁が本書なのである。