045 頭がいいのは御自分様
御自分様の住処
知情意を司る器官として大脳皮質があり、そこには140億の脳細胞があり、実際使われているのはせいぜい40から50億と言われている。ノーベル賞受賞者も一般の人も同じ。赤ん坊の時にできたもので、増えることはない。
計算すれば、28.6%から35.6%の使用率であり、半分も使えないということになる。脳力は平等ではないが、決して不平等といえるほどの差でもない。では脳は無駄にでかいのか。その未使用の約7割の脳にはなにがあるのか。
精子と卵子が結合して、子宮のなかで、一人進化論を実践する。だから人間の進化の過程が記録させていると考えられなくもない。人は時により前世や来世のことを考える。そんな発想があるのは、そういって記憶が脳に刻まれているからであると、確かに、そう考えられなくもない。しかし7割のすべてではないだろう。
人間は筋力であってもその能力のすべてを発揮していない。その証に「火事場のくそ力」という意味のことわざも世界各地にあるのである。いざとなった時にすごい力を発揮するという意味である。実際そんな記録も世界各地でいくつもあるのである。そして、これはなにも筋肉に限ったことではないのではないかと考えている。
すなわち脳も同じではないか。いざとなった時に必要な脳力がそこに潜んでいるのではないか。そのいざで動くのが御自分様なのである。御自分様は、心や頭がなんとか記憶させたり、考えさせようと指示を出しても全くいうことを効かないのである。普段は未使用の7割のどこかに住んでいるのである。すなわち脳の尊厳なのである。ほんとに頭が危険というときに「どっこいしょ」といって出てくるのである。
「やればできる」「だれにも負けない」なんて考えが極たまに出てくるのは、ご自分様がうずくのである。しかし、本当に必要なときにしか、ご自分様はそんなことはしないのである。
病の知と病の疑
やる気がないのは無論のこと、なんらかの疑問があっても記憶できない。それはなぜ、とほんの少しでも疑いあったら受け入れなれないのである。記憶とは、いかに自分の脳に疑問を持たせないかである。まっさらな無知を自覚して始めて記憶できるのである。記憶をする前に、いかにそれが必要かと思い込むかである。頭を真っ白にしてそこになんらかを書き込めるのである。だから、知識の多さは自身を馬鹿にした証なのである。その白知とは白痴に通じているところがある。病かそうでないかはどこに違いがあるのか。
病の知と書いて痴である。その「痴」は以前「癡」と書いていた。病の疑いとしていたのである。病は「疑」から「知」で確定したのである。現代の痴は病と知るのではなく、知が病になっているとの見方も出来るのである。
「それをそうだ」と知るその反対にあるのは「それはそうではないのではないか」という疑いである。知の反対側には常に疑いがあるのである。深刻に追求すれば知とは疑いに近似していくのである。結局は知だけでは片手落ちの状態なのである。裏にある疑と平衡をとって初めて自身のコントロール下に置くことができるのである。換言すれば自身と知との間を置くことである。
知識は経験と、知は情と意と結びついてより強固な知となる。それがいろいろな選択の礎になったりもする。非常に重要な役割を演じるものである。しかし自分の持っている知識に全くなんの疑いもなければ、それはすでに知の病に犯されているのである。以前は疑うことが病とされていたが、いまは知ることが病なのである。疑いのない知は知ではなく絶対であり、知識どころか自分自身を超えてしまっているのである。その逆にある行き過ぎの疑いである疑心暗鬼も自身を超えてしまっているのである。