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カンベン先生 最後のあがき4(熊ちゃん先生の教え)

 前回は、大学時代の友、大井戸について書いた。最も教職に対する熱意を持つ男が、いかにして教職からはじき出されたのかを述べた。
 私のもとに教員採用試験の合格通知が来たのが、昭和63年の9月だった。その直後に、2週間にわたる教育実習がおこなわれた。正直に言って、失敗ばかりだった。が、だからこそ、実りの多いものとなった。今回書くのは、そのときの話だ。

熊ちゃん先生の教え

 指導担当の熊田先生に初めて会ったのは、教育実習の1か月前に行われたガイダンスのときだ。体格の良い50歳がらみの男性教員だった。ひげは無かったが、よく日に焼けていて、本当に熊のようだった。
 打合せのあと、熊田先生が言ってくれた言葉を忘れない。「最初だから厳しいことを言っておく」と前置きをしてから、次のようなアドバイスをしてくれたのだ。
 「OBだから先生がたから大事にされるかもしれない。珍しいから生徒たちからちやほやされるかもしれない。しかし、勘違いをするな。実習生は、先生がたにとっても生徒にとっても、ただのお荷物にすぎない。学校は、貴重な授業時間をあなたがたに差し出すのだ。そのことを忘れずに、常に謙虚に取り組みなさい。」
 言葉は確かに厳しかったが、話し方はとてもあたたかかった。最後に「実習は失敗するためにある。失敗してもいいから全力でやるように」とも言ってくれた。

 教育実習が始まった。熊田先生のクラスは2年生だった。私が教室に入ると、生徒は元気に挨拶してくれた。熊田先生の話を落ち着いて聞いていた。私が簡単に自己紹介すると、盛大に拍手してくれた。なんて良い子たちばかりなんだ!
 1週目は主に熊田先生の授業を見た。授業は緊張感があった。生徒はよく質問に答えた。よそ見をしている者などいなかった。それでいて、時々笑い声が響いた。熊田先生の何気ない一言が場を盛り上げていた。
 間違えた生徒には、「おいおい、嘘言っちゃいけないよ!」と言った。それだけで笑いが起こった。言われた生徒も嬉しそうに笑っていた。みんなで言葉のキャッチボールを楽しんでいるように見えた。

 私は3日目から、朝と帰りのホームルームを任された。熊田先生は教室の後ろに立っていた。私が話をするときも、生徒はしっかり聞いていた。すべて順調にいっているように見えた。
 毎日授業を見て、学んだことを実習ノートに記した。空き時間には翌週の授業案の作成に追われた。忙しかったが充実していた。
 こうして無事に最初の1週間が過ぎたのだ。

 2週目に入って、いよいよ授業を担当した。すると、あれほど時間をかけて準備してきた授業案が、嘘のように役立たなかった。失敗ばかりだった。第一、ちっとも予定通りに進まない。質問しても生徒が答えられない。途中で自分が何を言おうとしていたのか分からなくなる。焦って説明すればするほど言ってることは意味不明となる。おまけに黒板の漢字を間違える。
 授業は3クラス持っていたから、同じ授業を3回やったのに、3回とも同じように失敗した。生徒にすまないやら、恥ずかしいやらで、自分が嫌になってきた。
 しかもあるとき、場を盛り上げようとして、男子生徒に「嘘言っちゃいけないよ」と言ってみたら、その生徒はふくれてしまった。最悪だった。

 「おれもなあ、3か月かかったよ」と、熊田先生は言った。「3か月かけて少しずつ信頼関係を作って、そしてようやく軽口をたたけるようになる。だからなあ、実習生には無理なんだよな。そういう意味で、あれはおれの悪い見本だった。ああいうのは真似しないでくれ。」それから、「まあ、大丈夫だよ、おれがひとこと言っておくから」と言ってくれた。
 熊田先生が彼に、どんなことを言ったのかは分からないが、次の授業でその生徒が不快感を表すようなことはなかった。

 最大の危機は、2週目の水曜日にやってきた。
 「悪いな、菅野君、ホームルームをひとりでやっておいてくれ」と、その朝言われた。保護者から急な相談が入って、電話を切れなくなったようだ。
 私は初めてひとりで生徒たちの前に立った。
 「熊ちゃんは休み?」とクラス委員の女子生徒が言った。
 「いいえ。ただ、急用が入りました」と私は言って、連絡事項の伝達を始めた。だが、いつもとはまるで違う。全体がざわついている。いつまでたっても無駄話をやめない。変な笑い声も響いている。
 「静かにしてください」と私は最初遠慮がちに言ったが、変わらない。かえってざわつきがひどくなった。
 「静かにしてください」と今度は少し大きな声で言った。私の話を聞こうともしない生徒が何人もいることに、とても驚いた。
 突然、私には分かった。すべては、熊田先生のおかげだったのだ、と。これまで生徒がきちんとしていたのは、いつも私の近くに熊田先生という後見人がいたからだ。失敗ばかりしている私に、生徒が愛想を尽かさなかったのも、熊田先生のオーラが私を包んでくれていたからだ。良い生徒ばかりだと感心していた自分は、なんとのんきだったことか。彼らが良い生徒だったのは、熊田先生がそうさせていたからなのだ。
 情けないやら恥ずかしいやらで、私の中にはわけの分からない怒りがふつふつと沸き上がってきた。
 ドン! 思わず私は、出席簿で教卓を叩いた。一瞬教室が静まった。視線が急に集まってきた。
 しまった! 何かを言わなければいけない。でも、何を言えばいい? こういうとき、いったい何を言えばいいんだ?
 頭の中が真っ白になって、とっさに私は怒鳴った。
 「この、バカヤロー!」
 そう言って、教室をすたすた出て来てしまった。

 私は、泣き出しそうな顔をしていたのではないだろうか。職員室で熊田先生が、「どうした?」と声をかけてくれたので、洗いざらい話した。私はせつなかった。だが、熊田先生は面白そうに笑いながら聞いていた。
 「今後の僕の授業を、彼らはしっかり受けてくれるでしょうか?」と私が心配になって尋ねると、「あいつら、そんなアホじゃないよ」と言った。
 そして実際、その日の彼らの授業態度は悪くなかった。いや、むしろ普段よりも良かったぐらいだ。

 その日の放課後、私は中庭のけやきの木のそばで、今日のできごとをぼんやり考えていた。あのようなとき何て言えば良かったのだろう? 
 いつのまにか、熊田クラスの生徒が5~6人やってきた。
 「先生はなんで坊主頭なんですか?」と、ある男子。
 「大人の事情です」と、私。(このことについては前回の記事に書いたので、気になったら読んでほしい。)
 「大人の事情って、何ですか?」と、ほかの男子。
 「大人にしか話せないから、大人の事情なのです。」
 「私たちが大人になったら、教えてもらえますか?」と、ある女子。クラス委員の子だ。私は少し考えるふりをしてから、逆に聞いた。
 「そういえば、君、先生のことを熊ちゃんって呼んでなかったかい?」
 「そうよ。で、私たち、管野先生のことを、何て呼んでるか知ってる?」
 「見当もつかない。」
 「バカヤロー先生。」
 「それ、本当か?!」と、本当にびっくりして聞いた。
 「管野先生って、面白いね。」
 「バカヤローって、誰に向かって言ったんですか?」と、ほかの女子。すると、「おまえだよ」「違うよ、おまえだよ」と、男女がお互いに指さし合っていたが、やがて「さよなら」と元気に言って、みんな帰って行った。
 バカヤローと、私は誰に言ったのか? もちろん、自分に言ったのだ。決まってるじゃないか。あれは、この私自身に言った言葉なのだ。だが、もしかしたら彼らにも、それが分かっていたのではないか?

 その日から、なんとなく生徒たちが変わった。なぜなのかは分からない。不思議としか言いようがない。
 木曜日と金曜日、残りの二日間の授業は、相変わらずへぼかったのだが、生徒が私を助けてくれているようにさえ感じた。熊田クラス以外においても同じだった。だから、変わったのは自分の方だったのかもしれない。
 最終日の研究授業も、だから、思ったほどひどいものとはならなかった。
 研究授業のあと、熊田先生は私に言った。「一歩、踏み出せたんじゃないか」と。そして、「時には自分の感情をたたきつけることも大事だな。そこから生徒は何かを感じ取るものだからな」とも言った。
 私が、「僕の失言のあと、先生は生徒たちに何と言ってフォローしてくれたんですか」と聞くと、「何も言ってないよ」とのこと。そしてまた「あの子ら、そんなにアホじゃないから」と言った。
 「僕もいつか、熊田先生のようになりたいです」と、最後に私は素直な感情を伝えた。「目標はもっと高く持てよ」と熊田先生は言ってから、「俺の真似をしようと思うな。時にはまちがってもいいから、菅野君らしい道を行きなさい」と言ってくれた。

 さて、2週間教育実習の話をまっさきに話したかったのは、もちろん大井戸である。ところが、大井戸は教育実習をキャンセルしてしまっていた。
 「おれはおれの道を探すよ」と、大井戸は言った。
 だから大井戸には、熊田先生のことも、熊田クラスのことも、どちらも話さなかった。もちろん、私と大井戸の関係は変わらなかったが、これ以後、なんとなく距離ができてしまったのは事実だ。

 実習が終わってすぐに、熊田クラス宛てに礼状を出した。「私もいつか君たちような良いクラスを持てるようがんばりたい」と書いた。
 クラス委員からすぐに返事のハガキが来た。そこにはデフォルメされた私の絵が描いてあった。黒板の前で笑いながら、「バカヤロ」と言っている絵だ。そして絵のわきに、こう書いてあった。「いつか熊ちゃんに勝て」と。このハガキは私の宝物である。

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