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カンベン先生 最後のあがき8(好きだよと言えずに初恋は)

 前回は、初任校の半島高校の定時制に赴任したばかりのころのことを書いた。バレーボール部の顧問になって奮闘していたころの話だ。
 今回も、当時のことを書く。1989年4月1日の辞令伝達式で坂本を知ってから、5月末の坂本の失恋までを述べる。例によって昭和にも帰る。昭和63年(1988年)12月の教育実習打ち上げの日に、一瞬だけ戻る。

好きだよと言えずに初恋は・・・

 平成元年の4月1日は土曜日だった。その日、私たち新規採用教員は、県庁ホールでの辞令伝達式に参加した。当時は土曜日が勤務日だった。
 席は、赴任する学校ごとに指定されていた。15分前だというのに、ほぼ全員が揃っていた。緊張感が張り詰めていて、とても静かだった。
 「やあ!」と、隣で声がした。坊主頭にしてから呼びかけられることが多くなった。きっと目立つからだろう。声の主は、背が高くて顔が長い。どこか見覚えがある。誰だったろうか?
 「おれは坂本。よろしく。」
 「おれは管野。半島高校の定時制に決まった。君も半島高校かい?」
 「そうだ。全日制課程の方だけどな。」そう言ってから、坂本は声をひそめて言った。「ここに来るとき、すっげー美人に会っちゃったよ。」
 「え?」
 「それでさ、彼女もこの会場に入ったみたいだった。ロングヘアで、目がキラキラしてる人、見なかった?」
 「見なかった。」私は冷ややかに言ったが、坂本はさして気にかけた様子もない。
 「あ、そう」と言っただけだった。そのうち辞令伝達式が、厳粛な雰囲気のうちに始まった。

 「大井戸は大学に残るんだってな。それで良かったと思うよ。あいつのクソ真面目さは、研究者になってこそ生きる。」
 式が終わってから、坂本がそう言った。そこで、私はようやく思い当たって、彼に言った。
 「君もよく大井戸と一緒にいたね。」
 「1年のとき数学の講義で一緒だった。おれは数学科だから、大井戸に数学を教えた。3年になって、おれが教職を目指し始めたとき、今度は大井戸がいろいろと教えてくれた。義理がたい奴だ。」
 「おれが居合わせたこともあったね。」
 「あのとき君はまだ、坊主頭じゃなかったな。そのあと、失恋でもしたのか? ところで、せっかく街に来たんだから、本屋にでも寄って行こう。」

 私と坂本は老舗の本屋に入った。5階建てのビルが丸ごと本屋になっていた。
 「あ!」と、坂本が小さく叫んだ。「さっきおれが話した人だよ。ほら、素敵だろ?」
 「そうかもな。」
 「菅野、おまえ、あの人の名前、知ってたりしないよな?」
 「知ってたりしない」と、私は嘘をついた。関われば面倒なことになりそうだったので。「知りたかったら、自分で聞きに行けよ。」
 「できるかよ、そんなこと。それにしても、素敵だろ?」
 「そうかもな」と、私は気のない返事をした。もし私がひとりだったとしても、声をかけなかったろう。彼女には近寄りがたい雰囲気があった。
 私は坂本と別れて、隣接のCD売り場に入り、以前から買いたかったCDシングルを買った。爆風スランプの「Runner」だ。

 2日後の月曜日、私は初めて半島高校に出勤した。この日は、新たに赴任する10名の教員が、事務室で各種の手続きをした。20代か30代の若い教員が多かった。半島高校は辺鄙な所にある。だから、ほとんどの教員が独身で、職員住宅に入るのだ。
 手続きが済むと、職員住宅に入る8人が、事務倉庫に集められた。そこには、電子ジャーやトースターなどの電化製品や、キッチン道具や家具や布団など、雑多なものが置いてあった。
 「お好きなものを持って行ってください」と、若い事務員が気前のいいことを言った。
 「これ、もらえるんですか?」と聞くと、「ええ。でも、引っ越していくときには、不要になったものを置いて行ってください。次の人のために。」
 良いシステムだ。私は、電子ジャーとフライパンと鍋をもらった。CDラジカセも欲しかったが、欲張るのはやめた。それは、坂本がじゃんけんで勝って手に入れた。

 私たちは戦利品を持って、職員住宅に帰った。
 私の部屋と坂本の部屋は、築10年の3階建の3階で、対面していた。2LDKだ。今では考えられないことだが、空調がなかった。それでもなんとか夏も過ごせたのは、海に近いため風がよく通って涼しかったからだ。
 帰り際、坂本は私の部屋をのぞきに来た。そして、まだ冷蔵庫も洗濯機もテレビもない、がらんとした私の部屋を見て同情したのだ。私は引っ越しが間に合わなくて、生活道具さえ揃えていなかった。
 「これやるよ。」坂本はCDラジカセをテーブルに置いた。
 「いいのかい? じゃんけんで勝ち取ったものなのに。」
 「おれにはなくてもいいんだ。でも、これがなきゃ、菅野はそれを聞けないだろ」と言って、テーブルにあった「Runner」のCDを指した。そのとおりだ。一昨日買ったものの、まだ一度も聞けていなかったのだ。
 「恩に着るよ。」
 「恩に感じたら、あのお方の名前を調べておいてくれよ」と、坂本は冗談めかして言った。

 数日後には授業が始まった。私は1・2年が4時間ずつ、3・4年が3時間ずつ、週14時間の授業を行った。各学年1クラスだから、全クラス担当することになる。責任重大だ。
 授業時間数は少ないが、どの授業も単発なので、授業の準備に追われた。
教員になりたての私にはきつかった。しかも、生徒の学力の幅が広いので、授業がなかなか軌道に乗らず、苦労した。
 新人は、最初のころ毎日が戦いだ。一日一日がとても長い。だから5月に入ったとき、まだ1か月しか経っていないことに気付いて愕然とした。
 そのころ、第1回新規採用者研修があった。国語科は、社会科と合同で少年院と特別支援学校を見学した。他校の仲間たちと話ができて、ちょうど良い気分転換となった。

 数日後の昼過ぎ、定時制の職員室に坂本が乗り込んできた。私は出勤したばかりだった。
 「おい、管野。お前、あのお方とどういう関係なんだ?」
 「あのお方?」
 「あのお方だよ。」
 坂本の言ったことを、かいつまんで書こう。
 数学科の研修は英語科と一緒に行われ、そこに例の彼女がいた。自己紹介があったので、坂本は彼女の名前と勤務校を知ることができた。
 休憩時間に入ると、なんと彼女の方から坂本に話しかけてきたんだ。『坂本さんは、管野君と同じ学校に勤務してるんですね。管野君とはお話をする機会がありますか。彼はうまくやれているでしょうか・・・』
 「まるで、お前の保護者みたいな言い方だったぞ。」

 「それで、坂本はどんなふうに答えたんだ?」
 「おれがお世話してるから大丈夫です。そう言ってやればよかったけど、言えなかった。頭の中が真っ白になっちまったからな。」
 「すまなかった。」
 「あの美しいお方と、お前はどんな関係なんだよ。」
 「ただ同じ高校の出身というだけだ。」
 「名前は、もちろん知ってたんだよな。」
 「すまなかった。少し言い出しにくくてな。でも、おれと桃山さんは、それだけの関係だぞ。」
 「分かってる。彼女、そのうち結婚するって言ってたからな。」
 「そうなのか。」
 「おれは電話番号を尋ねて、やんわり断られた。そのときそう言ってたんだ。」
 そして坂本は、その相手として、あるJリーガーの名前を言った。地元ではよく知られた選手だった。
 私は変に思った。わずか数か月前、教育実習の打ち上げで会ったときは、同じ大学の彼と付き合っていると言っていたような気がする。もちろん彼氏はJリーガーではない。
 「それからな、お節介なやつがいたよ。おれが彼女と話してるのを見て、『彼女だけはやめとけ』って忠告するんだよ。『彼女は魔性の女だぞ』って言うんだ。笑っちゃうよな、桃山様を魔性の女だなんて。」
 「そうだな。」
 「ああ、おれの恋は破れた。初恋だったのに!」
 「初恋? 嘘だろ?」
 返事の代わりに坂本は、「好きだよと言えずに初恋は~」と、村下孝蔵の名曲を口ずさんだ。そして、「おれは数式以外に好きになった相手はいないんだ」と言ってから、「おれを見くびるんじゃねえ!」とすごんでみせた。

 このとき私は、大井戸が以前こんなことを言っていたのを、思い出していたのだ。
 「数学の講義で、面白い男と知り合ったよ。彼は毎日数式だけを相手に暮らしていて、『おれの恋人は数式だ』って言ってるんだって。それで、みんなから『数式の変人』って言われてるんだ。」
 数式の変人とは、坂本のことだったのか。

 その日、住宅に帰ってから、坂本に譲られたCDラジカセで「Runner」を聴いた。昨年12月の教育実習打ち上げカラオケ大会を思い出した。そういえば、桃山さんが歌っていたのも、村下孝蔵の「初恋」だったのだ。
 あの歌が流行ったのは1983年の春で、私たちが高校2年生のときだ。桃山さんの歌を聴きながら、みんなは「懐かしい!」を連発した。
 「放課後の校庭を走る君がいた 遠くでぼくはいつでも君を探してた~」
 歌う桃山さんを見て、私はなぜか、胸の奥がむずがゆいような、へんな感じがしていた。
 歌い終わった桃山さんは、私の横に来て「本当に懐かしいわね」と言い、私は「懐かしいね」と答えた。それが、教育実習とその打ち上げを通して、彼女と交わした唯一の会話だった。
 高校時代、いつも近くにいた桃山さんを、あのときははるか遠くに行ってしまったように感じていた。

 桃山さんが付き合っていたJリーガーは、翌年から活躍の機会が急に減ってしまった。結局桃山さんは、彼と結婚しなかった。
 桃山さんは25歳のとき、IT関連会社の若社長と結婚した。私がそのことを知ったのは、今から5年前に県教育研修センターで、偶然再会したときだった。お互いにもう50歳を過ぎていた。

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