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カンベン先生 最後のあがき6(走りながら休め)
前回は、5年前に桃山さんと会って話したときのことを書いた。あの中で一番書きたかったことは、桃山さんの高校最後のレースだ。桃山さんは、今では陸上競技から離れてしまったが、別の道を走り続けている。
さて、話は再び令和6年の現在に戻る。私は今、2年の学年主任をしながら、陸上部の正顧問をしてる。3年生が引退したので、部員はわずか12人。弱小チームだ。だが2年生に、将来が楽しみな選手がいる。牛島だ。
8月末の新人戦地区大会は台風で中止となったが、牛島は公認記録が上位だったため県大会に出られることになった。現在、その練習をしている。
今回は牛島のことを書く。が、例によって昭和にも戻るのである。
走りながら休め
今日は祝日なので、久しぶりに最初から部活に出られた。
本校も多くの学校と同様に、陸上部はグランドの隅に追いやられて活動している。野球のボールやサッカーボールを避けながら、L字型に走れば150mのコースを取ることができる。牛島には150mを5本走るよう伝えた。
牛島が1本目を走り出す。徐々に加速し、コーナーの出口まで来てようやくトップスピードに乗る。しかし、スピードに乗ると安定し、ひょいひょいと軽くゆったりしたリズムで走り抜けていく。
体の割にストライドが大きいことが牛島の強みだ。しかも、その強みを充分に生かしたリズムを身につけている。
ただし、うまく走れたのは3本目までだった。4本目はやや疲れて手足の動きに乱れが生じた。5本目は完全に疲れてバタバタした走りになった。だがそれも、体幹が充分にできてきたら改善されるはずだ。
私は牛島を呼び、いつものアドバイスをした。
「走りながら休む。その感覚を少しずつ体で覚えろ。」
牛島の400mハードルの記録が、急に上がり始めたのは5か月前からだ。今年の4月から5月にかけて、記録は順調に伸びていた。走るたびに自己ベストを更新していた。
冬の練習の成果が出て、走りが力強くなっていた。ハードル間の35mの歩数は、5台目までが15歩で、6台目から17歩に切り替える。それがだいぶ安定してきた。400mハードルは慣れるまではたいへんだが、慣れてくれば面白いように記録が伸びる種目である。
牛島は、5月の地区大会ではぎりぎり12位で県大会に出場した。県大会は予選落ちしたが、タイムは60秒を切り、58秒台に突入した。出来すぎだ。
牛島は喜んだ。しかし、彼のスランプはそのとき始まっていた。
「もう3か月以上記録が伸びていません。」
練習の後、牛島が私に言いに来た。彼は焦っていた。
「頭を丸めろ。」即座に私は答えた。
「え?」
「床屋に行って、5厘で頭を刈ってもらえ。」
「え?」と牛島は目を丸くして、「なぜですか?」と言った。
「皆そうやって壁を乗り越えてきたからだ。」
「それって、また昭和の話ですか?」
「そうだ」と言うと、牛島はニヤリと笑って、他の部員が休んでいるベンチに戻った。彼らの声が、ここまで届いてきた。
「カンベンに何て言われた?」「坊主頭にしろだって」「なんで?」「それが昭和のやり方だって」「そうか、じゃ、坊主にしろ」「やだよ。お前が坊主にしろ」「お前だよ」「ははは・・・」
私は、牛島の記録更新が止まったことを、まったく気にしていない。
「記録は少しずつ上がる」という人がいる。だが、それは違うと思う。記録は上がるときにはいっきに上がる。そして、停滞期がやってくる。停滞期には、いくらもがいてもタイムは上がらない。
そして、そういう時期こそ大事なのである。自分のやるべきことを粛々とやり通せるか? まったく手ごたえが感じられなくても、焦らずに努力し続けられるか? そこに、アスリートとしての力の差が現れる。
牛島は我慢のときだ。もう一度冬期練習を乗り越えれば、さらに記録は伸びる。今は淡々と、「走りながら休む」イメージを身に付けてほしい。
そういうことは常々伝えてきたのだが、じっとしていられないようだ。それも仕方がないかもしれない。私も同じだったのだから。
話は41年前に飛ぶ。1983年、昭和58年の秋だ。私は高校2年で、400mハードルに取り組み、壁にぶつかってもがいていた。
私は牛島と同じく、ハードルの歩数を6台目から17歩に切り換えていた。後半は疲れるので15歩で走れなかった。それが私の限界だった。すべて15歩でいきたかった。そこで、あえて練習が終わったあとの疲れた体で、15歩で走る練習をしていた。
ところが、新人戦県大会の1週間前に、右膝をハードルにぶつけて派手に転倒した。そのとき、着地した左足首を捻ったのだ。
そうだ、思い出した。桃山さんがすぐに助けに来てくれたのだ。彼女もまた、ひとりで居残り練習をしていた。
「すぐに水で冷やしなさい。」彼女は駆け寄ってそう言い、水場まで付いてきた。「家に帰ったら、氷で冷やすのよ。」
「ありがとう。」
「そんなに走る必要はないのよ。」
「君だって走ってるじゃないか。」
「私は長距離よ。だから、いくら走ったって足りないの。それに、」と何か言いかけて言葉を吞み込んだ。「私は県大会に出ないのだからいいの」とでも言おうとしたのか。
「明日になったらきっと腫れるわね。でも大丈夫。当日は走れるわよ。」桃山さんはなぜか自信ありげにそう言った。
試合までの数日を、私は筋トレだけで過ごした。しかし、この走らなかった時間が、私にいろいろなことを気づかせてくれた。
私は、6台目以降のことばかりを考えていた。だが、大事なのは5台目までの走り方なのではないか? もっと楽に5台目までを走れないだろうか?
考えてみれば、競技場はいつも前半200mが追い風になる。その風に乗って、力を使わずに楽に走れないだろうか?
たとえば自転車で走るときはどうだろう。最初は力を使うけど、スピードが出てきたら漕がずに足を止めて休む。だが、スピードはそのまま維持される。そんなふうに走ったら、後半も15歩で走る力を残せるのではないか?
このとき私の「走りながら休む」というイメージができた。
私は教員になってから、多くの部員にこのイメージを伝えてきた。そして牛島のひょいひょいした走りは、誰よりも私のイメージに近いのだ。
「牛島はたくましくなりましたね。」副顧問の酒田がいつのまにか私の横に立っていて、ぽつりとそう言った。まったくその通りだと思う。
入学したばかりの牛島は、ひょろ長くてひ弱そうだった。中学時代、運動はまったくやってこなかったそうだ。「なぜ陸上部に入りたいのか」と聞くと、「何かできるようになりたいから」と答えた。「それに、バカにされたくないから」と小さな声で付け加えた。
入学当初は、走っていても風に吹かれて飛んで行きそうに見えた。ちゃんと走れるのか不安になったほどだ。しかし、練習しているうちに見込みがあることが分かってきた。なんと言っても、牛島は真面目なのだ。
冬の練習は、筋力と体力をつけるために、さまざまなサーキット・トレーニングを行った。運動をやってこなかった牛島にとって、それはさぞかし辛かったことだろう。冬の初めはよく吐いていた。だが、吐き終わるとまた練習に戻ってきた。そして、また吐いた。
「それに、以前はどもってましたよね」と酒田。それも、その通りだ。
当時は「せ、せ、せ、先生」と言って、よく先輩たちに笑われていた。だから、仲間たちともあまり話をしなかった。だが、いつのまにかどもりは消えていた。今では仲間と自然に冗談を言い合っている。
ここまで来るのに、いったいどれほどの苦労をしたのだろうか。もしかしたら、私たちの想像を絶する苦しみがあったのかもしれない。本当によくがんばってきたと思う。
私は、牛島を筆頭にこの部員たちには、絶対に悔いの残らないレースをさせたいと心から思っている。
最後に41年前、桃山さんが捻挫した私に、何をしたのか書いておこう。
新人戦県大会当日の朝、桃山さんは虫籠に蜜蜂を10匹ほど入れて持って来ていた。その理由をいくら尋ねても、答えてくれなかった。
私は、痛みが引かなかったので、1日目の110mハードルは棄権した。走るのは、2日目のマイルの予選と、400mハードルだけに絞った。
ウォーミングアップは皆に交じらず、ジョッグとストレッチだけにした。
最初の種目であるマイルの予選の前、後輩に呼ばれてベンチに行くと、桃山さんがいて私は仰向けに寝かされた。彼女は私の患部を見て、「痛むのはここね」と言うと、虫籠から蜜蜂を1匹素手でつまみ出した。
「お前、何をする気だ?」と言った直後、チクッとした。「バカヤロー、何しやがる!」
「これは麻酔なの。痛み止めになるのよ。蜂針療法よ。」
「そんな治療はない!」
「そんな治療があるのよ。うちの実家は養蜂をやっていたから、知ってるの。」そう言って桃山さんは、もう1匹つまみ出してチクッとやった。
桃山さんはそれを、400mハードルのときにもやってくれた。そのため、予選と準決勝の2本を走ることができた。しかも、準決勝では自分なりのリズムがつかめて、初めて6台目まで15歩で行けたのだ。
私がこの日、足を傷めながらも納得のいく走りができたのは、ひとえに桃山さんと、針をもぎ取られて死んだ6匹の蜜蜂のおかげなのである。
さて、新人戦県大会は、今週末の9月21日と22日である。牛島の出場する400mハードルは22日である。ここで結果を出さなくてもいい。ただ、県大会という場を楽しんでほしい。
本当の勝負は、冬期練習を越えたあとの来春からだ。そこにつながるような、気持ちの良いレースをしてほしい。