カンベン先生 最後のあがき3(泣き虫先生よ、永遠に!)
泣き虫先生よ、永遠に!
努力、根性。これこそ昭和の美徳だった。そして、この美徳の上に、殴るという行為があった。こう言うと、語弊があるかもしれない。だが、誤解を恐れずに言うぞ。努力と根性の上に、殴るという行為はあったのだ。
私と大井戸は、某国立大学の人文学部に所属していた。同じ寮に入っていて、その入寮歓迎会で知り合った。そのときのことはよく覚えている。初めてビールを飲んだ日だからだ。
ビールはまずかった。ただ苦いだけだった。だけど、周りに合わせて「うめえ」と言って飲んだ。背伸びをしたい年頃だった。しかし、大井戸は飲まなかった。勧められても頑なに拒んでいた。「僕は未成年だから飲めないんだよ」と言って、オレンジジュースを飲んでいた。あの時代、そういうまっとうな人間は珍しかったので、目立っていた。
その席で彼は「教員になりたい」と言った。理由を聞かれて、「神聖な仕事だから」と答えていた。大井戸によると、国を作るのは人である、人を作るのは教育である、よって教育は国を作る神聖な仕事である、ということだそうだ。そういう視点は、私にとってとても新鮮だった。
「僕も教員を目指しているんだ」と、私は彼に言った。そして 「スクール・ウォーズ」の話で盛り上がった。私たちはふたりとも「スクール・ウォーズ」の大ファンだった。
「おまえら、悔しくないのか!」と、大井戸は泣き虫先生こと山下真司の真似をして言った。
「悔しいです」と、私が生徒役になって応じた。
「それなら、これからお前たちを殴る!」と言って、大井戸は私を殴る真似をした。と思ったら、本当に私の横っ面をピシャリとやった。
「この場面、大好きなんだよ。だから、真剣に演じないといけないよね」と、大井戸は言い訳のように言った。そしてふたりして笑った。こうして私たちは仲良くなった。
ところで、現在どれぐらいの人が「スクール・ウォーズ」を知っているだろうか。伏見工業高校ラグビー部をモデルにして、一世を風靡したテレビドラマだ。私たち世代はみんな見ていた。私が大学入学と同時にテレビ放映が終わったが、反響が大きくてそのあとすぐに再放送が始まった。
私たちは、あのドラマがどれほど好きだったか! 私も大井戸も、そのナレーションをほとんど覚えていた。
「この物語は、ある学園の荒廃に戦いを挑んだ熱血教師の記録である。高校ラグビー界において全く無名の弱小チームが、健全な精神を培い、わずか数年で全国優勝を成し遂げた奇跡を通じ、その原動力となった信頼と愛を、余すところなくドラマ化したものである。」
私と大井戸が演じた場面は、伝説の名場面だ。ある試合において109対0で惨敗した部員たちを、殴ることで奮起させる場面なのだ。
泣きながら「悔しいです」と言う生徒に、「お前たちを殴る」と宣言する泣き虫先生。どうしてそういうことになるのか、なんて誰も思わなかった。ただただ感動して泣けたのだ。昭和60年においては、殴るという行為が「信頼と愛」の高次の表現でありえたのだ。
さて、私と大井戸はとても気が合った。お互いの部屋を行き来してよく語り合った。「スクール・ウォーズ」の再放送があったときは、それを録画して一緒に見た。そして泣き虫先生について語り合ったものだ。
私たちは、お互いにそれぞれの仲間ができてからも、その関係は変わらなかった。3年次になって寮を出てからも、お互いの下宿を行き来した。日曜日には図書館で、一緒に教員採用試験の勉強をした。
大井戸はとても真面目な学生だったので成績が良かった。また、早くから教員採用試験の準備を始めていた。そして、学んだことは私に気前よく教えてくれた。
私たちが4年生になった昭和63年、学校教育において大きな問題となっていたのが体罰だった。大井戸はそのことで苦悩していた。
「管野は、面接で体罰について聞かれたらどうする?」
「体罰は許されないことだとはっきり言わなきゃいけない。そういうアドバイスが『月間教職4月号』に書いてあったぞ。」
「分かってる。そうじゃなくて、管野の考えを聞きたいんだ。」
「決まってるじゃないか。泣き虫先生のやったことは間違ってないさ。」
「でも、そんなふうに答えたら、落とされちゃうよね。」
「そうだ。だから落ちないように、おれは建前を言う。」
「気持ち悪くないの?」
「気持ち悪い。」私は急に悲しくなってきて、いっきにまくしたてた。
「おれたちは小学校のとき、廊下を走って殴られた。忘れ物をして殴られた。宿題を忘れて殴られた。授業でよそ見をして殴られた。だから今さら世間が、体罰がどうのこうのと騒ぎ出したことに驚いてる。それじゃ、今までのは何だったんだ? でも、誰もその肝心な問いには答えない。ついこのあいだまで生徒を殴ってた先生が、今じゃ教頭とか校長になって、『体罰はいけない』とか言ってる。正気じゃないよ。下手すると、そういう連中が採用試験の面接官になってるかもしれない。まじめにやれるか? 嘘をつくのは確かに気持ち悪い。でも、この偽りの世界において、おれは正直であろうとは思わない。嘘も方便と言うじゃないか。おれの目的は採用試験に受かることであって、正直な人生を貫くことじゃない。」
「ぼくにはできない。」と大井戸は言った。「そんないいかげんなことはできない。」
そして、大井戸は高校時代のバレー部での体験を話してくれた。失敗すると顧問の先生からビンタが飛んできた。そのビンタには愛があったという。
「先生は本当に大事なことを伝える時だけビンタをしたんだ。たとえば、チームメイトのことをしっかり思いやれなかったときとかね。しかも、ビンタの意味が分かる者にだけしか、ビンタをしなかった。ぼくはビンタされるのがありがたかったよ。それは、ぼくを信頼している証拠だからね。」
「その感覚は正しい。だが、その正しさは面接試験では通じない。」
「ぼくは、まごころから真剣に訴えれば、必ず相手に伝わると思ってる。だから面接試験でも、まごころから真剣に伝えようと思う。」
「どうしてそんな幻想を持っちゃったんだ?」
「泣き虫先生は、いつだってそうやって相手に伝えてたじゃないか。」
その通りなのだ。私は反論できなかった。
さて、7月の一次試験は私も大井戸も合格した。一次の面接では、あまり深い内容のことを聞かれなかった。
8月の二次試験では、5人の集団面接があり、たまたま私と大井戸は同じグループだった。予想通り、体罰について聞かれた。私は面接官が納得しそうな解答をした。偽りの解答を。
大井戸も「体罰は許されません」と言ったが、「しかし、ぼくは世間における体罰の定義に疑問を持ってます」と続けたのだ。そして、例のビンタの話を引き合いに出し、「これは体罰ではありません。信頼と愛の行為です」と言ってのけたのだった。
そのときの面接官のぽかんとした顔を、私は忘れない。
9月に私には合格通知が来たが、大井戸には来なかった。合否を分けたのは、あの集団面接での発言だったにちがいない。
私の部屋でふたりビールを飲みながら残念会をした。
「連中には、おまえのまごころが通じなかったな」と、私は言った。
「でもぼくは、あのようにするしかなかったんだよ。」
「もっといいかげんに生きろよ。」
「ありがとう。菅野からは、いいかげんさの大切さを学んだよ。」
「いいかげんさは、おれの数少ない能力のうちのひとつだからな。」
「そのいいかげんさを、ぼくに少し分けてくれないか?」
「甘えるな。こういう能力は、苦悩しながらじっくり時間をかけて身に付けていくものなんだよ。」
翌日、私は頭を坊主刈りにした。この気持ちは説明しがたい。だが、大井戸はなんとなく察してくれたようだ。私の坊主頭を見ても、何も言わなかったのだから。
私が教員を坊主頭で始めたのには、こういういきさつがあったのだ。
4月から私は定時制高校の教員になり、大井戸は大学に残って文学論の研究を続けた。その後の付き合いは、年賀状のやりとりだけになった。
ただ一度、大井戸に会いに行ったことがある。あれから数年後のことだ。大井戸は他の大学に移って時間講師をしていた。その大学のベンチに座って近況を話し合った。
私は、同期の仲間のことも話した。そのうちのひとりは、部活の指導中に熱くなって生徒を殴ってしまった。生徒にけがはなかったが、彼は自ら学校を去ることになった。彼とは仲が良かったので、私はショックだった。
大井戸は、「もう泣き虫先生の時代じゃないんだな」と言い、しばしの沈黙ののち、ぽつりと「ただのばかだ」と言った。
殴った教員自身がばかなのか、彼を退職に追い込んだ世間がばかなのか、私にはそのとき分からなかった。
だが、今ならよく分かる。そのどちらでもないことが。大井戸は自分のことを言ったのだ。あれから時間が経って、大井戸はかつての自分の振る舞いを、以前とは違った角度から眺めるようになったのだろう。そして、あのころの自分自身に「ばかだよな」と言ったのだ。特に、二次試験の面接における自分のバカ正直な振る舞いに対して。今なら、そうはっきりと分かる。
大井戸のことはこれで終わりだ。彼は今、その道では少し知られていて、時々NHKの番組で見かけることがある。