見出し画像

カンベン先生 最後のあがき5(走る走るおれたち)

 前回は教育実習において、熊田先生から教えられたことを書いた。今から36年前のことだ。その年の教育実習生は、私を入れて14人いたのだが、翌年実際に教員になったのは、私と桃山さんだけだった。
 桃山さんは、私と同じ陸上部だった。高校時代はよく話をしたが、実習中はまったく会話できなかった。忙しかったからだ。また、彼女が髪を長く伸ばし、近寄りがたい雰囲気になっていたことも、理由のひとつだ。
 さて、今から5年前、桃山さんと偶然会って話をした。今回はそのときのことを書く。

走る走るおれたち

 5年前に桃山さんと再会したのは、県教育研修センターでの研修会が終わったあとのことだった。センターを出て帰るときに、彼女と目が合って「やあ」と言うと、「あら、まあ」と答えた。
 2019年、令和元年のことだ。教育実習から30年以上がたっていたのだが、すぐに彼女だと分かった。驚くなかれ、教育実習のころとほとんど変わっていなかった。私たちはすでに52歳になっていたというのに。私たちは、当時できたばかりだったスタバに入った。
 彼女は結婚して姓を変えていたが、ここでは桃山さんと書く。「桃山」というイメージが、彼女にはぴったりだからだ。

 「教育実習以来かな。」
 「懐かしいわね。管野君は実習のときも、気合いが入ってたよね。ほら、頭を丸坊主にしてたでしょ。」
 「それは違う」と言いたかったが、「では、どうしてか」と聞かれるとやっかいだったので、聞き流すことにした。(大井戸のことを話せば、ややこしくなるばかりだ。)
 「管野君、高校3年のときにも坊主頭にしたよね。部活を引退したすぐあとに。受験に立ち向かうために、気合いを入れたんでしょ。」
 「それもまた違う」と言いたかった。そんなかっこいい理由ではない。私は部活でインターハイに行けなかった。ブロック大会ではぶざまにも予選落ちだった。そんな自分が許せなかったので、坊主頭にしたのだ。

 「私はね」と、桃山さんは続けた。「あのころはとことん走ってたのよ。放課後の練習だけじゃない。朝5時に起きて毎日5キロ走ってた。日曜日は10キロ走ったわ。もちろん、高校生活は勉強と陸上だけ。遊ぶ時間なんて無い。それでいて目標はささやかだったのよ。地区大会で12位に入って県大会に出ること。たったそれだけ。なのにその結果、どうだったか分かる?」
 「13位。あれは不運なレースだった。」
 桃山さんは3000メートルの選手だった。周りの選手についていけるようにと、涙ぐましい努力をしていた。しかし、本番のレースは想定外のスローペースになった。誰もがペースメーカーにされるのを避けて、前に出る選手がいなかったのだ。その結果、20人ほどの選手が団子状態で最後の1周に入った。勝負はラスト200メートルのスパートで決まった。10位から13位の選手4人がほぼ同時にゴールして、桃山さんは百分の1秒差で13位だったのだ。
 「大敗北。悔しすぎて涙も出なかったわ。」
 「運が悪かっただけだよ。」
 「管野君には分からないわ。管野君は、地区大会で優勝して、県大会でも上位に入って、ブロック大会まで勝ち上がったでしょ。だから、引退したあとすぐに気持ちを切り替えて、受験に立ち向かえたのよ。でも、私にはできなかった。だから私は、生き方を変えることにしたの。」

 それ以後、桃山さんは泥臭い努力をやめた。なるべく楽な道を選ぶことにしたのだそうだ。たとえば親に内緒で国立大学進学を諦め、受験科目を勝手に3科目に絞ってしまった。共通一次試験は受けたものの、最初から英国社以外は捨てていた。そして私立大学に進学した。
 「でも、戦略的には正しかったじゃないか。おれよりずっと偏差値の高い大学に入ったのだから。」
 「そういう問題じゃないの。私はあのとき大きな何かを失ったのよ。」それから桃山さんは、「私の懺悔を聞いて」と冗談めかして言った。

 桃山さんが教職を選んだのは、女性にとって働きやすい職場だったから。特に英語教員の世界は女性中心の職場だ。高校時代に陸上部だったことは隠していた。「私は何もできません」という顔をしていた。そうやって、運動部の顧問になることから逃れてきた。
 25歳で結婚して、翌年子供ができて産休を取った。その後、当時導入されたばかりの育休を取得した。職場に復帰してからは、「子供が小さいから」と言って毎日定時で帰った。担任はやらなかった。もちろん部活の指導もしなかった。同僚の冷たい視線は、気にしないことにした。
 「そうやっているうちに、それが自分のブランドになってくるのよ。『働かない人』それが私のブランド。そういう教員って、一定数いるでしょ。私は、娘が小学校を卒業するまでそのブランドを貫いたの。同僚たちが一番苦労している20代から30代を、のんびりやりすごしたわ。たまたま早く子供ができたことが、そういうことを可能にしたのだけど。ところで、管野君のうちはどうなの?」
 「うちも娘がひとりで三人家族。娘はおれが39歳のときに生まれて、もうすぐ14歳。ところで、子どもが大きくなってからは、どうだったの?」
 「そこなのよ、大事な点は。人生は思うようにいかないものね。」それから桃山さんは、「私、教頭なのよ」と言って私をびっくりさせた。

 娘が小学校を出た年、教務課長が転勤した。桃山さんは教務課に所属していたので、その仕事を引き継いで教務課長となった。担任も部活もやっていなかったので、押し付けられたのだそうだ。まだ30代だった。
 数年後、県の教育委員会に転勤となった。そして、40代前半で指導主事。誰の目にも、出世コースに乗ったのは明らかだった。本人はまったくその気がなかったのだが。
 「私には分かったの。これは罰なんだって。これまでお気楽な生き方をしてきた罰。つまり、罰としての出世なの。」
 「罰としての出世?」
 「そう。これからもっと増えるわよ。特に、子育てが一段落した女性ね。女性の管理職は足りない。だから女性というだけで、無理やり出世させられるのよ。管理職がいかに割に合わない仕事なのか、知ってるでしょ。女性登用というと聞こえはいいけど、それは罰としての出世の合言葉なのよ。」
 私には、桃山さんがことさら自分自身を悪く言っているように思えた。どう考えても、出世は彼女の実力によるものだ。

 「打ち上げのこと、覚えてる?」
 そう言われて、私も思い出した。教育実習の打ち上げを、年末の休みにやったのだ。当時流行り出したカラオケボックスに、8人ほどが集まった。
 1988年の冬だ。爆風スランプが「Runner」を出して間もないころだ。私は「Runner」を歌った。サビの部分はみんなで歌った。『♬走る走る俺たち流れる汗もそのままに、いつかたどり着いたら君に打ち明けられるだろ』
 「あの歌は、今でもおれのテーマソングなんだ。」
 「あのカラオケボックスで、みんなで歌いながら、私は思い出してたわ。走って、走って、走り続けていたときのことを。そしてあの歌を聞くと、今でも思い出すのよ。」それから桃山さんは、ぼんやりした口調になって言った。「あの時代は、いったいどこへ行っちゃったのかしら。」
 「どこにも行ってない。今でもちゃんとあるよ」と私は言った。「おれの中は、いつだって昭和だ。部活動で生徒と一緒に走ってると、あのころの自分を取り戻して楽しくなってくる。きっと、桃山さんの中にもまだ残ってるはずだよ。」
 「そうかなあ。うん、そうよね・・・それなら、私ももう一度走ってみようかしら。でも、ただ走るだけじゃないわ。今度は、走ることで復讐してやるんだ。」

 「Runner」が大ヒットしている間に、時代は昭和から平成に移った。だから私には、この歌が、昭和という時代を駆け抜けてきた私たちへの、葬送曲のようにも思えるし、応援歌のようにも思えるのだ。
 さて、桃山さんの言った「走る」という言葉の意味を、そのときの私はほぼ正確に理解していたと思う。あれから5年経った今、思った通り桃山さんは校長になっている。しかも、拠点校の校長だ。県のさまざまな役職を兼ねて、バリバリ働いている。

 最後にもう一度、高校3年の地区大会の話をさせてほしい。1984年、昭和59年の5月のことだった。
 私は他の3人のリレメンと、ゴール付近でマイルの最終コールを待っていた。そのとき、女子3000メートル決勝を、桃山さんが走っていた。
 参加選手30人中、20人ほどが先頭集団を作るという異例の展開だった。ラスト一周の鐘と同時に、周りはいっきにスピードを上げた。少しずつ集団が前後に伸びていく。桃山さんにはきついペースだ。「桃山、ついていけ!」と私たちは叫んだ。桃山さんはギアチェンジして、必死に食らいつく。
 「よし、いける!」
 ラスト200メートルで、桃山さんは8位だった。直後、すぐ後ろの集団が死に物狂いのスパートをかけてきた。2人に抜かれた。
 その後ろの3人も追いつき、桃山さんを吸収して4人の集団になった。だが、桃山さんは諦めない。ラスト30メートルから、横一列に並ぶ。誰も一歩も引かない。4人が一緒にゴールになだれ込む。そのときの桃山さんを、私はスローモーションで思い出せる。ゴールと同時にグランドに倒れ、仰向けになり、天を仰ぎ、呆然として、手の甲で涙をぬぐったのだ。
 写真判定の結果が出るまで長く待たされた。私たちは、息を呑んで待っていた。だが、桃山さんの表情がすべてを語っていた。死力を尽くし、ぎりぎりの勝負をした当人には、百分の1秒の差が分かるものなのだ。
 あのレースは、敗北だったのだろうか。
 分からない。
 桃山さんの最後のレースは、本当に敗北だったのだろうか。

いいなと思ったら応援しよう!