見出し画像

『氷食症と冷蔵庫と吸血姫』

“ガリ、ガリガリ、ゴリゴリゴリ、ゴッゴッゴッ──”

「また氷食ってるよ」と思ったが、口には出さない。彼女が貧血なのは分かっている。貧血と言っても人間の貧血とは違って、彼女にとっては致命的な貧血なのだから仕方ない。とはいえ、貧血と氷食症の関連については正確な医学的証明は成されてないらしい。
 しかし、とにかく彼女はよく氷を食べるのだ。

 コップが空になると、彼女はまた冷蔵庫へ向かう。
 急速モードで作られた氷を付属の白いスコップですくい取り、空のコップにがららっと転がす。その上から水やジュースなどは注がない。彼女は氷だけを欲している。

 側の椅子に腰掛け、ダイニングテーブルに肘をついたまま彼女は無言で氷を食べ続ける。僕はソファーに座り、冷蔵庫が「ンーー」と稼働する音と彼女の咀嚼音を聞いて過ごすのが習慣だ。

“ガリ、ガリ── ンーーーーー”

“ゴリゴリゴッゴッゴッゴ── ンーーー”

 今日も良い音だ。
 彼女がこの部屋に初めて泊まった日、僕は彼女の膝の上で冷蔵庫の稼働音を聞いたことを覚えている。

 その夜、彼女は「あなたの血が吸いたい」と言った。僕は何かの冗談だと思ったので、半笑いになりながら「いいよ」と返事した。すると、すぐに彼女は僕の腕の内側にかじりつき血を吸った。

「痛っ! てか、首からじゃないのか?」

彼女は僕の腕から顔を離し、八重歯に付いた血液を口の中でずずっと啜ってから返事する。

「んー、頸動脈を刺すと血が止まらなくなるから避けてるの。私の八重歯は器用だからね。どこの血管でも狙い撃ちして吸えるんだよ」

「じゃあ、今は腕の静脈の血を吸ってるの?」

「そう、静脈。あなたの想像してる通り、動脈血の方が美味しいんだけどね」

「そう──」

吸血は続く。元々痩せ過ぎていた僕は献血に行ったことが無く、急激に血を抜かれるという感覚を初めて体験した。(ああ、今血が抜かれているんだなあ)と思ったら、めまいがして、目の前がちかちかした。少ししてから、「やばい……」とだけ言えたと思うが、目が覚めたのは夜中になってからだった。

「ごめんね。私、あなたの血を吸うのは初めてだったから、加減がわからなくて。ちょっと吸い過ぎたみたい」

「んん。いいよ。血は止まってるみたいだしね」

彼女は僕の肘の内側に小さな絆創膏を貼ってくれていた。僕の献血初体験はこうして終わった。

 その後、僕は彼女とセックスをした。
 彼女は枕の上で頭を振り、何度も口を開いて声を上げた。開いた口から見える八重歯の先から、赤茶けた唾液の糸が引いていた。それを見ながら、僕は自分の血液が彼女の体内に入っている事を考えていた。気づけば、器用過ぎる彼女の八重歯に、僕の中心部は吸い付かれてしまっていたようだ。

 翌朝、僕は彼女に合鍵を渡した。彼女は僕の“吸血姫”になった。


 それから半年の間で、僕が吸われても大丈夫な血液の量について彼女は詳しくなった。しかし、僕から吸える血液の量は彼女にとって少なく、貧血と同じ症状を引き起こしてしまう。
 僕らには、血液が足りていない。僕と付き合うようになってから、彼女の氷食症状は治まらない。

「あー、私、氷食べ過ぎてあごが疲れちゃった」

「んん。無理しなくて良いからさ。僕の血を吸えばいいよ」

「やだ。私はあなたを苦しめるつもりなんて無いもん」

「苦しくはない。もう慣れた」

「そんなこと言って、吸い過ぎると<ああ……やばい……>とか言って倒れるもん」

「んん。まあ、倒れる自信はある」

彼女が氷を食べている姿を見ると、どこかで我慢していることを察してしまい僕は申し訳なくなる。
 ダイニングテーブルで、彼女はコップを回し、からんと音を立てる。

「ねえ、今更なんだけど……私ね、初めてなの。血を吸う相手と、付き合ってる相手が同じ人なことが」

「え? そうなの? 君は基本的に付き合ってる人から血を吸うのかと思ってたんだけど」

「違うよー。だって考えてみてよ。私はずっとこの身体なの。そしたらさ、例えば子供の頃はどうしてたと思う? それこそ、小学生の頃から絶え間なく彼氏がいたとしたら、私は何歳の時から、何人のひとと付き合ってることになると思う?」

コップが逆さまになり、大きく開いた彼女の口に次の氷が滑り落ちる。
 唇の下に見える彼女の八重歯は、よく見ると少しだけ茶色い。これは彼女が誰かの血を吸い続けてきた何よりの証拠だろう。

“ガリガリ、ゴッゴッゴッゴッ──ンーー”

 コップが空になったらしい。
 彼女は再び立ち上がり、冷蔵庫のひきだしを引く。しかし、中で氷が転がる音はほどんどしない。

「あ、氷なくなっちゃう」

 僕も立ち上がる。

「ごめん。冷蔵庫小さくて。単身用だから」

「ん。私は大丈夫よ」

「大丈夫じゃないでしょ? もう僕の血、吸っていいから」

僕は左腕を差し出す。肘の内側は内出血の跡が紫になり、そのうち黒くなってしまいそうだ。

「もー。大丈夫って言ってるのに」

「いや、大丈夫じゃないだろ」

冷蔵庫の前に立つ彼女の喉を、ごくりと生唾が下る。僕は彼女にもう一度腕を突き出す。
「ごめん」と言った彼女が八重歯を立てる。痛い。内出血の上から太い釘を打ちつけられるような痛みだ。それと同時に背骨の中を鼠が駆けずったような悪寒が僕を襲う。意識が遠のき、目の前の彼女がちらちらと明滅する。

 僕は彼女に腕を捕まれたまま身体を押され、ソファーに寝かされる。彼女は跪いて、僕の腕に顔を押しつける。
 時折、じゅじゅじゅっと音がする。吸血姫は口の端に滴る血を手の甲で拭ったりはしない。ずずずっと啜る音がしてから、彼女は上目遣いで訴える。

「私ね、いくらあなたの血を吸っても口が熱い気がするの。氷をいくら食べても治らないの」

「そりゃ氷を食べたところで貧血の根本的な解決にはならないからね。レバーを食べても薬を飲んでも、君の貧血は改善しない。だから僕の血を吸えばいいんだよ。それなのに、ちょっと血を抜かれただけで気を失うくらいの、だらしない身体の僕が悪いんだ。本当に申し訳ない」

「謝らないでよ……私だって、吸血する人と好きな人が一緒なの初めてで、どうしたらいいか分かんないんだもん」

僕の腕を握っていた彼女の両手が緩む。だが、離れはしない。

「僕にも分からない。でもね、僕は君が吸血姫であることを理由に、君のことを好きになったわけじゃないから。それだけは言えるよ」

「ん、ありがとう。──はあ、吸う人と好きな人、同じじゃない方が良いのかなあ」

跪いていた彼女の肩から力が抜ける。
 彼女は吸血姫であり、利口な人間だ。これまで、吸血する相手と交際する相手、これらを混同しないように生きてきたのは、彼女の利口さ故だろう。

「でもね、君は僕の血が好きだろう? 僕のことも好きだろう? 君の遺伝子や感情は君の意思で操作できるの?」

「それは……できないけどね。でもね、付き合うかどうかは、口で言えば解決するじゃない。<別れましょう>って、私が言えば、解決するじゃない」

「待てよ。僕の意思は無視されるのか。──いや、じゃあこうしよう。冷蔵庫を買おう。新しくて大きいやつ。それも、製氷庫がとびきり大きいやつにしよう」

僕の腕を握ったまま、彼女はキョトンとしている。一度落としたお尻をもう一度持ち上げる動作を忘れてしまったようだ。

「ねえ、冷蔵庫を買っても、私とあなたに血が足りないのは解決しないと思うよ?」

「そうだね。僕と君の血は、僕らの意思とは無関係に足りていない。僕は十分な血液を君にあげられないし、君はどうしても血液を欲する。僕らはそれに抗えない。だとしたら、冷蔵庫を買えば解決するじゃない」

「しないよ!」

「君が言ったことと同じだ。コントロール出来ない感情や遺伝子を抑えるために、行動を起こして変えようとしているだろう? 僕に<別れよう>なんて、君の心にも無いことを言おうとしているんだろう?」

「それは──そうだけどさ。なんか違うじゃない」

思ってもいないことを言おうとする彼女の口は僕が塞ぐ。彼女の頭を引き寄せ口づけする。舌を入れると、血液の味がした。
 彼女の口腔内は熱を帯びている。彼女の貧血症状が舌の温度を上げているだけなのかもしれない。あるいは、僕の血液を啜ったから温かいのだろうか。

 いや、貧血でも、僕の血液でもない。僕と彼女の感情が作った温度なのかもしれない。分からない。──が、確信がなくとも、覚悟をすることは出来る。

「よし。やっぱり、僕らのための冷蔵庫を買おう。とにかくでかいやつを」

彼女は僕の腕を抱きながら答える。

「うん、、でもなんかずるい。吸ってたのは私なのに。でも私、なんだか冷蔵庫が欲しくなっちゃった。──あーあ、ここ最近頑張って働いたお金は全部冷蔵庫行きかなあ」

「はっは。笑わせるなよ。僕が冷蔵庫メーカーで働いてるって知ってて言ってるだろう?」

「ふふ。一応言っておくけど、私があなたの仕事を知ったのは、初めて血を吸った後のことだからね? 社員割引に期待なんてしてないんだから」

「さあ、どうだか。ちなみにウチの会社は業務用製氷機も造ってるぞ。とんでもなく大きいやつ」

「んーん。業務用じゃくていいよ。一般家庭用の冷蔵庫が欲しい。二人用のやつ」

僕はもう一度、彼女に口づけした。彼女の八重歯から血液の味がしなくなるまで、ずっと。

 



(おしまい)

 

 

【こちらの企画に参加しています】


フォロワーさんの冷蔵庫の小説を見て触発されて書きました。悲しいやつじゃないやつで、なんとか書こうとして風呂敷を広げたら、吸血姫の話になりました。(字数制限は書かれていませんでしたが、風呂敷がでかくて少々長くなりました。すみません。)

 んん。やっぱり同じテーマで書くのは楽しいなあ。書くのも、読むのも。


おしまい。またね。

僕の書いた文章を少しでも追っていただけたのなら、僕は嬉しいです。