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『待ち猫行列』
ラーメン屋の行列は何人を超えてから行列と呼ぶのだろう。店舗前に用意された四つの椅子は埋まり、さらに僕の前に一人の待ち客が立っている。ちなみに偶然にも僕を含めて皆スーツ姿だ。服装が一致しているかはさておき、人間が二人立って並んでいるのだから、列と呼んで差し支えない気がする。
しかしながら、三つの椅子の上に座しているのは白・黒・茶の三匹の猫であって、ラーメンを待つ客ではない。首輪をしていないのでおそらく野良だ。短い軒には冷たい風に混じって春の日差しが降る。猫たちには恰好の日向ぼっこの場所なのかもしれないが、店内から溢れて漂うラーメンの香りは猫が食べるには塩分が濃すぎる。
三人の人間はラーメンを待っているが、三匹の猫は何を待っているでもなさそうだ。
「一名でお待ちのミヨシ様どうぞー」の声で椅子が一つ空いた。
それを見届けて満足したのか、白猫がストンと椅子から降りラーメン屋とビルの隙間に消えていった。
二つ空いた椅子に僕ともう一人の待ち客が座り、立ち行列はなくなった。
店内を背にして座ると、炒飯を振るフライパンが五徳に擦れ「カン、カンカンカン」と鳴る音が何かを急かしているように聞こえる。その割にリズムだけはいやに子気味良い。いや、僕の横に座る黒と茶の二匹の猫が「そんなことはない。炒飯もフライパンも、五徳も、なにも急かしてなどいないんだ」と言っている。道行く人を鼻先で追いながら。
まあ猫が言葉を喋るなんてことはないし、ましてや僕が猫の脳内の言葉を読めるはずもなく、僕は今日のラーメンをネギ増しにするかどうかを考えることにした。道行く人が僕の脳内の言葉を読めるなんてことはないし、読まれたところでどうってことないのだ。
「一名でお待ちのナカノ様ー、カウンターの席へどうぞー」の声がドアが開くのとほぼ同時に聞こえた。続いて茶色の猫が椅子を降り、ラーメン屋とビルの隙間にトコトコと歩いて消えていった。
僕はラーメン屋の空きを待つ一人の客となった。黒猫は喋らない。
ここ三か月ほどスマートフォンのバッテリー残量の減り方が著しく速く、僕は胸ポケットに手を伸ばすことを意識的に避けていた。黒猫と一緒に、道行く人々に鼻先ばかり向けるのはなんとなく憚られたので、ビルの隙間の空を観察することにする。ついでに、ラーメンのネギの量について考えるのは中断だ。
都市の大きさの違いというのは旅をして一度、住んでみて更にもう一度感じる気がする。スマートフォンの画面からでは分からない、見上げたビルの隙間から見える空の大きさでようやっと感じることができる。
とはいえ、街中で空を見上げることなどそうそうなく、道行く皆はスマートフォンの画面に目を落としていて、一心に前を見ている人は一人もいないんじゃないかと思える。複数人で歩く若者たちでさえも、恋心は小さな端末の中にそのほとんどを詰め込んでいるのだろう。
一人だけ、きょろきょろと視線を泳がせながら進む女性がいた。黒のリクルートスーツを着て、バッグとA4サイズほどのバインダーを小脇に抱えている。視線の通りすがりに目が合った気がしたが──ひと呼吸の後、意を決したようにこちらに向かってきた。
彼女が見ていたのは僕か、あるいは横の黒猫か。
「あっ、あの――すみません」
「はい。何か?」
「あの、アンケートに答えていただけませんか? ほんの五分もあれば終わる簡単なアンケートですので」
「いや、僕、ラーメン待ってるので」
「あ、そうですよね、分かってます」
彼女は伏し目がちに半歩ほど下がり、自らを落ち着けるように耳に髪をかける動作を一つ。が、彼女の耳元にかけるほどの髪はない。後ろできゅっと結ばれているからだ。もしかしたら普段は別の髪型をしているのかもしれない。
一瞬だけ横の黒猫に彼女の視線が流れる。
黒猫は喋らない。
「で、なんのアンケートですか?」
ネギ増しにすると心に決めてしまった僕には時間があった。僕は立ち上がり、ラーメン屋の前に僕と彼女によって列ができた。
男性の美容意識と行動についてのアンケートらしい。年齢と職業(どうみても冴えないサラリーマンだが――)を答えたあと、「冬だけは毎日風呂上がりにオールインワンジェルを使っている」と本当のことを伝える。
「よろしければ、お使いの商品名やメーカー名を――」
そこままで言った彼女の質問はラーメン屋のドアの開閉音によって遮られる。
「一名でお待ちのミドリ様どうぞー」
ラーメン店の呼び出しの声は、あまりにも呼び出し慣れしすぎていて甲高さはない。しかし、僕がアンケートに答えるのは終わりであるのだと、ラーメンを注文する権利を得たのだと、はっきりと伝えられた気がした。
「そういうことなんで」
僕は一言を残してドアに進む。彼女は半歩下がる。黒猫は喋らない。彼女が急かすように喋る。
「あの! 私、下の名前、みどりって言うんです」
「え? それなら僕らが結婚したら、“ミドリみどり”になってしまうね」と返せばよかったのだろうか。しかし、ミドリは偽名だ。ラーメン店の列に並ぶ人物の名前なんて誰に聞かれても困らないものだから。嘘でも本当でもどちらでもいいのだ。それに彼女が待っているのはアンケートの続きであって、”ミドリみどり”についての話ではない。
「あのさ、待てるならでいいから、そこで待っててくれる?」
ドアを開く手を止め、僕は黒猫に向けて言った。
「あの、私も、待っててもいいですか?」
「待つなんてことはしなくていいよ。僕がラーメンを食べている間、黒猫がそこに座ってるか見ててくれないかな? たぶんだけど、君が見てないとその黒猫はビルの隙間に走り去っていってしまう気がするから」
「えっ? あの、はい――それなら、どうぞごゆっくり」
彼女のいでたちからして新卒入社後の研修の一環か何かだろう。度胸試しとまではいかないが、雰囲気からアンケートの数量にノルマのようなものが課されているのではないかと想像できる。まあ、こんなもの僕のただの想像に過ぎない。
ラーメン店の空きを待つでもなく黒猫に話しかけている彼女の後ろ姿はどことなくリラックスしているように見える。一名分のアンケートを確保できることが嬉しいのか、つかの間の休息の心持ちなのか。あるいは、ただ猫が好きなのか。
このネギ増しのラーメンを食べ終えたら僕の本当の姓ぐらいは伝えることにしよう。もちろんだが、アンケートの項目に氏名を答える必要性などないが。
(おしまい)
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