『指示』
携帯の画面をオフにする。
真っ黒な画面に、自分の顔が突然現れる。30歳を超えて、「あなたの顔が好き」と言われるようなことが、減ってきたように思う。若しくは、僕の会話する女性たちが、人の顔など気にする要素としていないだけ、かもしれない。
風呂上がりの髪は、自然乾燥で十分だ。
前髪の生え際は、毎朝鏡を見るたびに確認しているが、密度が減ってきたように思う。ただ、この真っ黒な携帯の画面を用いて、生え際の密度を正確に確認することはできない。それなのに、僕は思わず目を凝らしてしまう。
僕の携帯の向こうでは、彼女が地べたに座り込んでいる。頭にタオルを巻きつけたまま、風呂上がりの手続きの真っ最中だ。
小さな机の上に、役割りの分からないチューブやボトルが置いてある。彼女は、順不同に置いてあるそれらから、彼女の知る順番で、必要なものを手にとる。
折りたたみのスタンド三面鏡に、おでこや頬を近づけながら、何かを確認している。僕の生え際と同じように、彼女にも何かしらの確認すべき事があるのかもしれない。
彼女は、コンタクトを外そうと、鏡の中の自分の目を覗き込む。
彼女の手は、その目に、行かない。
こちらを振り向き、僕に聞く。
「そんなにハゲてるか気になるの?」
「いや、まあ、んん。気にならないと言ったら嘘になるかな。」
「じゃあ、さ。」
そう言って彼女は、謎のクリームとボトルの入っている箱を探る。箱から抜いた右手には、一本のクリームチューブ。
「これ、塗ってみたら?」
彼女の手には、"除毛クリーム"と書かれたチューブが握られている。悪い冗談だ。腹立たしい。自分の彼氏に対して、ハゲを促進させろと言うのか。
「おい。ハゲさす気か!」
「は?なんで急に高い車の話してるの?第一、あなたが乗ってるのは、軽自動車でしょ?」
「レクサスじゃない!ハゲさす気か!って言ってんの!」
「夜なのに声が大きいわね。羽の生えた馬の話なんて、誰もしてないわよ。」
「ペガサスじゃない!ハゲさす気か!って言ってるんだってば!」
どうやら僕は、就寝前にも関わらず、悪い夢を見始めたらしい。彼女は黙ったまま、僕のおでこに人差し指を向ける。
「指さすな!!」
彼女は、上げた指を維持したまま、もう片方の手のチューブを、こちらに近づけてくる。
「だから!ハゲさ…せようとしないでください。お願いします。」
僕にとっての重い二文字は、彼女の口から出てこなかった。
今日は、いい夜だ。
時計の針は、僕らの時間を、指している。
(おしまい)
僕の書いた文章を少しでも追っていただけたのなら、僕は嬉しいです。