〈雑記〉三大欲求と小説
はい。こんにちは。
カナヅチ猫でございます。
色々と書いていく中で思うことも個人的にはあるわけで、かと言って創作論的なものを振り回すほどには何かを書いた経験は僕には無い。たかが100とちょっとの何かのお話を書いただけだ。
とはいえ、書いているうちに自分の中のルールのようなものもあり、僕は何かの普遍的性質の下で書いているんだろうなと思うことがある。この普遍的性質は決まりや縛りではなく、僕自身の持つ普遍的性質であろう。
僕という図形を引き延ばしたり、ぐにゃりと曲げたりしても維持されるような普遍的性質。
詳しくは分からないけれど、考えることはある。
それを記しておくための文章だ。
あとは、以下の記事に触発されて、小難しいことが書きたくなった。ただ、ただそれだけである。
※元記事の作者様、僕の書いているモノにはあまり意味がないので、気にしないで下さい。論点もすぐにズレています。
僕を触発していただいたことに意味があります。先に御礼を申し述べておきます。お二方、ありがとうございます。
エロと小説について。
睡眠、食事、セックス。所謂人間の3大欲求と呼ばれるやつらである。これらを小説に書くということ。
実は食事も睡眠も、状態としては僕の書いたものに登場するが、追求して書いたことがない。ここ最近、やっとセックスについて真正面から書いた。
このタイミングでやっと気づいたのだが、3大欲求について僕らは、理由なく本能的に解釈しておる部分が他の感情や欲求より多いように感じる。したがって、本能的欲求以外の理由が伴う3大欲求の存在は多数派ではない。
とすると、僕が3大欲求を書く場合には、何かの条件が必要なのだろうと思うに至った。
理由の無い小説を書くのは僕の感覚からすると難しい。
例えば、主人公が走り出すのには理由があるからだ。
恨みのある相手を追うため、約束の時間になんとか到着するため、女の子の尻を追いかけるため。まあ色々あるけれど、とにかく理由がある。それも、他者を介したモノから、自分のための理由まで帰着先は様々である。
ただ、書くぶんにはそれを書けばいい。
しかしながら、主人公が飯を食うのに、単純な欲求以外の理由に重きを置かれる場面は少ない。腹が減ったから、栄養を摂取する必要があるから、主人公は飯を食うのである。
したがって、小説内で描写された時間軸の日数が3日分あれば、一日3食摂っているとしたら、計9回は主人公は食事をしているはずである。しかし、その全ての食事シーンが描写されるかと言えば、そうではない。
(それこそ、9回の食事を違和感なく小説に溶け込ませるのは至難の業だと思う。「書けばいいじゃん」と言われるかもしれないが、無意味な描写はマジで邪魔である。)
いや、もちろん、場合によっては、“彼女に好かれるために手料理を平らげる”といったこともあるだろう。ただ、この場合には食事の描写は読み手の食欲とは結びつかない。
彼女の手料理が描写されたとして、それが非常に食欲をそそる描写であったとして、主人公の感情と必ずしもリンクしない。
・美味しそうな食事
・彼女に好かれるために動かす手と口
この二つは隣りあってはいるかもしれないが、必ずしも重なってはいない。主人公の行動理由としてのベクトルがぴったりと同じ方向を向いた行動とは言えない。
いや、もちろんあると思う。
セックスする理由が性的欲求と多く重なる場面も。それはそれでいい。そういった場合に、僕は3大欲求について書くこともある。
理由理由と散々書いているが、なんや色々書いていて、僕が書くものは結局ここに帰着される。
練習の意味も込めて、際限なく色々書いてみたが、後から読んでいまいちだなと思うような文章もある。
そういったお話には、理由が無い。
情景描写や叙情に終始しており、何も書かれていない。新しい発見が無い、オチが無い、ユーモアが無い、笑いが無い、アイディアが無い。僕はこの何もない小説について書こうとは思わなくなった。
無意味だからだ。僕は何もないものを小説として表現する意味を見いだせない。あるとすれば、表現衝動と自己顕示欲だけだろう。僕にとっては無意味だ。
なぜならば、僕は僕の書いたモノを消費されたいからである。
自分自身に表現衝動と自己顕示欲が無いと言っているわけではない。もちろん僕にもある。だが、それは僕にとっては小説を書く際の本質では無い。
僕にとって無意味だからだ。消費されなければ僕の小説は小説たり得ない。
ずっと言っているが、僕は僕の書いているものに対して、僕のアイディアや表現を入れているが、僕の主張は無い。あるいは僕のごく個人的な感情や感傷や感慨“だけ”を込めたいとは思わない。また、読み手に「●●と思って欲しい」とは思わない。もっと言えば、読み手に「●●欲しい」とは思わない。
いや、思うべきではないと思っている。
なぜならば、僕が読んでいるときに面白くないと思う小説はこれらを感じるからだ。自分が嫌ならしなければいい。しない。ただ、それだけだ。そうではない人はすればいい。表現の自由だ。
ただ、僕はしない。僕にとって価値を感じるものではないからだ。
必要なのは登場人物に関することだ。
僕の場合、登場人物は作者とは切り離されている。登場人物は登場人物の理由によって小説内で動く。(書いているのは僕だから、僕から出た登場人物であることは確かだが、理由は登場人物だけのために作用するという意味で書いている。)
だから、理由があるものが書きたい。
ただ雨が降ることに理由は多く存在しない。現象があるだけだ。僕はただの現象より人間を書きたい。
では、3大欲求はどうだろう。
特に、セックスはどうだろう。
第一の理由はやはり性欲である。
性欲があるから、セックスをする場合がほとんどであろう。世界中で行われているセックスについて、統計を取ってみれば良い。性欲以外の理由でのセックスも存在する。それは、存在するかどうかだから、存在はしている。ただ、多いのは性欲によるものだろう。
だから、セックスはセックスのためにセックスなのである。
つまり、これと言って書く理由が見当たらない。
また、特殊な場合のセックスを無理くり見つけて書くのは僕の本意ではない。
ただし、セックスを通して主人公の行動が変化したり、セックスをきっかけに次の場面の関係に影響する場合は別だ。
セックスの理由ではなく、セックスが何かの理由として機能する場合の話だ。これは書く必要があるセックスだと僕は思う。あくまで一例に過ぎないが、セックスを書く理由としての存在証明はこれで十分だろう。
食事や睡眠でもそうだ。
書くべき場合は存在している。
ただ、先に述べたように、3大欲求は僕らの生活に密着しすぎていて、小説にするのは非常に難しい。
セックスが薄ら寒いものになったり、変に一部のみリアルな描写だと浮いてしまうように肌感覚が遠くなる。結構敏感なものだと思う。
残念ながら、というか、書いていて思ったが、風景や情景の描写はある程度の所までは鍛えれば可能だと思っている。もちろん、文章力や表現としての個人の能力には依存するが、磨いても磨いても、ただただ情景描写が上手いだけの小説は、ただの解説文に過ぎない。
情景描写は何かに影響し、何かに理由を与え、時には登場人物の関係性や性格を表すモノとして機能すべきだと思う。
とか、言いましたけどね、自分自身が可能かと言われると別の話ですよ。僕自身が全てをできているかと言われるとそうではない。
ただ、これらを自分なりに解釈、理解し、普遍的性質として表現に組み込もうとしているかどうかの問題だと思う。
エロの話はどこに言ったのだろう。
もう完全に忘れてしまっているが、まあいいだろう。
というか、小説の形で表現しているものを、別の論説文で書き尽くしてしまえるならば、小説化する必要はない。
ただし、まためっちゃ話は飛ぶが、書けないモノを作るべきではないとも思っている。したがって、先日のセックスの話はセックスを書く練習のための文章である。
情景描写にしても何にしても、練習しないとマジで上手くならない。海も、空も、悲しいも、楽しいも、全て他のその辺の埃の描写も、書かないと上手くならない。
バットの構造に異次元に詳しいだけの人が居ても、一度もバットを振ったことが無ければ、急に試合に出てもヒットを打つのは難しいだろう。
ならば、なぜセックスを避ける理由があろうか。
ない。僕にはない。避ける理由がない。
小説内でセックスが機能する場面に出会ったときに、書けなくて良いのか。そんなことはない。どちゃくそ濡れ場なセックスが必要な場合は絶対に存在しないのか。
多様すぎて無数すぎる小説の世界で、存在しないことを証明するのはほぼ不可能だ。というか、証明する必要などなく、僕にとってはセックスが必要なものとして存在していると思っている。
長々と書いたが、それもこれも、小説を消費されるために書いているからだ。全く以て、これは僕の普遍的性質として、保持しておきたいとも考えている。
僕は消費されるべきであり、消費される意味を見いだしたく、消費されることを求めている。だから、小説の形が僕にとっては僕を表現するモノとして有用に機能するであろうと、今の僕は手探りをしている。
いい加減「おもしろい」についてまとめた論考を書きたいのだが、如何せん時間が無い。
雑記がクソ長い。
もう黙ります。
素人がうじゃうじゃ言うなよ。と。ね。
雑記は雑記なので、どうでもいいのですが、僕は雑記も含め公開したモノとして消費していただければと思っている次第です。
お疲れ様でした。
おしまい。またね。
僕の書いた文章を少しでも追っていただけたのなら、僕は嬉しいです。