純白は、美しい女の姿をした魔性。
雨上がりの京都大学北部キャンパスを自転車で走る。1時間ほど前にやんだ、突然の激しい通り雨は、雷を伴って、まさにバケツを引っくり返したような、と形容するのに相応しいものだった。18時を少しすぎた初夏。道で佇んでいると、うっすら額に汗をかく季節になっていた。
まだずいぶんと深く残った水たまりに入ると、格好が悪いからと取ってしまった泥除けのことを思い出した。紺色のデニムの上に着た白い長袖シャツの背中が気になって仕方がない。
僕は、白昼夢の世界のように美しい白、というものが好きだった。僅かでも汚れていたら捨ててしまって、また新しいものを着よう。祖母に言えば、同じサイズのシャツを、家の近所のテーラーのおやじに言って届けさせてくれる。
大学を北に抜けると右折。白川通の方へ進む。ここは通りに合流する間近で急坂になっているから、ギアを少しだけ軽くして、あんまり汗をかかないようにした。厚手の生地で透けるようなことはないけれど、濡れると不愉快だ。
子供の頃からきれい好きで、いい匂いがするものだけを愛していた。汚いものや、気に入らない匂いがするものを嫌って、遠ざけた。
京都造形大学の大きな階段を少し過ぎて、目印になっている店を左折。本当は遠回りなのだけれど、道を覚えるのが面倒だからわざわざ白川通に出て北上、西進する。それに、この大きく、堂々とした大階段は何度でも観る価値があると信じていた。
僕には、芸大というものに対する強烈な憧れがあった。芸術という、数学や英語、物理を超えた学問や表現、活動というのは、一種の未踏領域のような、科学的なアプローチやプロセスの中にある高揚感を内包しているように感じていたし、単に絵がうまいだとか、そういうことにさえ、憧憬の念を抱いていたことは事実だ。
マンションに着くと適当にあいている場所に自転車を置いて錠をする。人感センサーでオレンジのライトが上から何度かパッパッと光って、消えた。
自動ドアの前で部屋番号を打つ。少し下から映された僕の顔はどんなだろう。気になって前髪に少し触れたと同時に「おかえり」という声がして、ガラスのドアが開いた。階段をあがって角の部屋。デザイナーズマンションだかなんだかで、コンクリートが打ち付けになった外観からシームレスに、部屋の中まで灰色の世界になっている。ひとりで暮らすには十分すぎるほどに大きなワンルームの扉を開くと、女が歩いてきた。
長く美しい黒髪が揺れる。真っ白なワンピースと美しいコントラストになっている。身長は何センチだったか、忘れたが、女にしては高い。
「不用心だよね」
僕が言うと、
「勝手に開ける人、貴方しかいないから」
薄く笑って答えた。
靴を脱いで、そろえて隅に置く。下座に置いていても、いつの間にか下駄箱の方に寄せられているから、最近では、もう最初から下駄箱の方へ置くようになった。
ベッドとテーブル、壁のそばに革張りの黒いソファがあるだけで、ものの少ない部屋だった。ただ、この広々とした空間の多くをSteinwayが悠然と、それでいて威圧的に支配をしていた。女の出自を具に訊いたことはない。出身がどこで、どういう幼少期か、あたりは話されたことを憶えている。地方の豪族とか、豪農だか、そういった、祖先が金を持っていたような家だと記憶している。かなり広い、ピアノが弾ける部屋を用意して、そこにピアノも置くのだから、とにかく、貧しいとは露ほども思わなかった。
授業の終わりに家に帰らず、女の家に来る生活になったのは11月の終わりだった。大学の祭りに来ていた2人組の女に声をかけた。ナンパをしたわけではなく、クラスで出していた店で売っている食べ物を買わせるためだ。二人は、詐欺みたくべらぼうに高いそれを嬉しそうに買って食べると、酒も飲みたいと言い始めたから、酒を売っている南部の店まで連れて行った。
ベロベロに酔っ払った上回生が、テントの奥に置かれたコタツに入って叫んでいるのを見て、女はけらけらと笑って、あなたも酔ったら変人になるの?と言うから、あんまり変わらないと思うと言って笑った。女がおごってくれると言うからビールを何杯か飲んでいると、いつの間にか暗くなってしまったから、展示を片付ける為に戻ると伝えた。
もうひとりの女が、「もうお店閉まるの?」と訊いたから、北部へ行ったら、もっと遅くまでやっているらしいと言って、早足で店に戻った。
夜になって、明日の当番を確認して、みんな散り散りに帰っていった。僕は用事があると言って、北部キャンパスを覗いたけれど、女の姿はなかった。行かなったのだろうか、来たけれどすぐに帰ったのだろうか。
「寒いだろ、よかったらあたりな」
ごうごうと燃える灯油缶のまわりで酒を飲んでいた男に言われて、近づいた。理学部の上回生と、院生が、真っ暗なキャンパスの中、オレンジの火を囲んで日本酒をやっている。安くしとくけど、飲む?と店番の男が言うから、じゃあ飲みやすいものをと言ったあたりまでは意識がある。そのあとは、ぼんやりと、魔法の世界に紛れ込んだように、ふわふわと、断片的な記憶が浮かんではきえる。その中に、突如、あの女の笑顔が浮かぶ。僕ばかりが酔っ払っていって、女は嬉しそうにしている。女が店番の男の前で財布を開く、すると紙コップをふたつ持ってきて、首を傾げて手渡す。はて、夢か現か幻か。
朝目が覚めると、僕は、ひとりで暮らすには十分すぎるほどに大きなワンルームの部屋にいた。強烈な喉の乾きと頭痛に苛まれながら、隣に眠る女の感触に気づいた。黒髪が美しい、真っ白な女が淡く淡く息をたてて眠っていた。
それからというものの、僕達はお互いに都合のいい時に勝手気ままに出会っては、彼女が作るご飯を食べて、酒を飲んでは貪るように求めあった。大雨の日は気が滅入るから、どうしても会いたいとせがまれる。そんな時は必ず、酒を飲んだあと、女はピアノを弾く。タッチの正確さなんて、いちいち覚えちゃいない。女は、死に近い美しさ、狂気に似た何かを充満させていき、部屋の中と外の世界を、はっきりと分断して僕を閉じ込めてしまう。
夏休み、女が帰省している間に、いつの間にか彼女ができた。いちいち言う義理もない、ぱっと光って消える、打ち上げ花火のような関係だったのだと勝手に決めつけて、連絡をとらなくなった。
夏が終わって、秋、授業がゆっくりと再開されはじめると、すぐにまた学祭がやってきた。展示で何かに関わることもなかったから、去年お世話になった理学部の人に挨拶をと思い、夜に北部キャンパスに顔を出した。
北海道大学の人たちや、横浜から来たという人たちの中に理学部の男と、そして、女がいた。
嘘みたいに、軽々しく、僕は「やあ」と言って、女も昨日ぶりに会った級友にするように笑って「やあ」と応えた。突然いなくなったこと、連絡を返さなくなったこと、その他、何ヶ月かの間で起きた何もかもを訊くことなく、女はただただ、夜の黒の中で、力強く燃える炎に照らされ、美しく揺られていた。
二杯三杯と日本酒を飲んで、ビールもあおれば少し酔い、僕の方から女に詰め寄った。長く会えずに寂しかったのか、突然、連絡を返さずどう思ったのか、実はそれは彼女ができたからなのだが、気を悪くしたか。僕の言葉に女は、告解を聞く牧師のように落ち着いて何度も頷いてから、「そうなんだね」、とだけ言ってみせた。
オレンジの光に揺られるあまりにも美しい女に、僕は禍々しいものを見た。純白というものは、そもそも、この世界で年齢を重ねた人間には備わっていない。いや、正確に言うと、備わっていたが、生きていれば汚れていくものだ。それがどうだ、女は不自然なほどに真っ白だった。”白昼夢の世界のように美しい白”、そんなものが、実在する人間の中に存在していることに驚き、恐怖した。
それから女を目にすることはなかった。偶然どこかで会うかとも思ったけれど、一度たりとも、そのような機会はなかった。この世界に存在するはずのない純白をまとう、美しい女の姿を。